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大院君

19世紀後半、朝鮮王朝の政治で強い影響力を持った政治家。1863年、高宗の実父として摂政となり実権を掌握、従来の勢道政治を改める改革と共に、キリスト教弾圧・民衆運動の抑圧を行った。おりから強まった外国勢力に侵攻には激しく抵抗した。1873年、高宗の親政開始とともに失脚したが、なおも閔氏一族と対立しながら隠然とした力を保った。清、ロシア、日本が朝鮮への介入を強めると、壬午軍乱では清に拉致された他、甲申事変・閔妃殺害事件などで復権と失脚を繰り返した。

大院君

大院君

 大院君(たいいんくん 1820-98)は19世紀後半、朝鮮王朝の最末期に、国王高宗の実父として政権を握り、最も強い影響力を持った人物であった。1863年、実権を握るとそれまでの有力な両班が政権を争う世道政治の弊害を無くす改革に努めると共に衛正斥邪の思想に基づく保守的な鎖国政策をとって外国勢力と闘い、また民衆反乱の抑圧を行った。
POINT  大院君が朝鮮王朝の実権を握っていたのは1863年からの10年間、40歳代~50歳代初めのことで、この間の大院君の政治の特質は、・朝鮮王朝の王権の再建、・衛正斥邪思想による排外主義、の二点をあげることができる。
 1873年からは政治の表舞台からは退き、もっぱら国王の実父という立場で裏から王朝政治をコントロールしようとした。これ以降の後半期は、大院君の評価には注意を要する。政治の表舞台に高宗と后閔妃の一族が立つ(世道政治)ようになると、大院君と閔氏の間に陰湿な争いがつづけられ、その対立に清、ロシア、日本という周辺諸国が介入をして、80~90年代の壬午軍乱、甲申事変、日清戦争と甲午改革、閔妃暗殺事件など重要な出来事に常にキーマンとして登場、あるいは利用されつづけた。やがて実子である高宗との関係にも亀裂が生じることとなった。
注意  この後半の大院君の動きは隠されている部分も多く、隠然として力をもっていたことは確かだが、その評価を過大視することにも注意しなければならない。特に大院君は一貫して日本を西洋の手先として敵視しているが、日本はその力を利用しようとして近づこうとする、という矛盾をはらんでおり、日本との関係を視ていくときには注意する必要がある。

大院君(1) 1863~73年

摂政として政権握る

 1863年12月、朝鮮王朝(李朝)国王の哲宗が継嗣なく死去したため、李氏の一族のから高宗が即位したが、幼かったので父の李昰応イハウンが興宣君大院君の称号を与えられた。高宗の即位に伴い形式的には哲宗の王后であった趙大后が垂簾政治を行うこととなったが、実際には大院君が政治の実権を握り、後に摂政となった。
大院君とは 大院君とは固有の人名ではなく、国王に直系の後継者がいない場合、王族の中から次の王を選び、その王の父(つまりは王でなかった人物)に対する尊称である。したがって朝鮮王朝には複数の大院君がいたが、歴史上、高宗の父の興宣大院君があまりにも有名になってしまったので、単に大院君と言えばこの人物のことを指すようになった。<金重明『物語朝鮮王朝の滅亡』2013 岩波新書 p.89>

封建体制の再建

 大院君はまず朝鮮王朝の政治を停滞させていた、国王の外戚である門閥貴族 (文武官僚の地位を世襲した 両班)の勢力が政権を独占する勢道政治の弊害を除くため、特権身分ではない人材を実力本位で登用し、党争を繰り返した党派の背後にあった儒学者の私塾であって実際には独立した封建領主化し、王朝の統制からはずれていた書院を撤廃し、一種の官許のギルド組織だった都賈(とこ)の 禁止、税制の改革など、国内政治の刷新を図った。これらはそのころ芽生えてきた資本主義に対応するものであり、たびたび民乱を起こした民衆も、政府の重税政策の根源は国王ではなく勢道政治の実権を握る一部の門閥貴族や特権的な商人層であると考えていたので、大院君がそのような門閥勢力を一掃してくれると期待し、支持した。<中塚明『近代日本と朝鮮』1970 三省堂新書 p.12>

キリスト教弾圧

 朝鮮へのキリスト教の布教は16世から始まり、中国から宣教師が密入国して18世紀にはカトリックは天主教と言われ民衆の中に広がっていったが、儒教の立場に立つ朝鮮王朝支配層はそれを邪教として恐れ、1801年には最初の弾圧(辛酉教難)によって宣教師など300人が処刑され、実学者の丁若鏞らも流罪となった。その後、ローマ=カトリック教会は1830年代から朝鮮布教を本格化させ、中国でアロー戦争の結果北京条約が締結されてキリスト教の布教が解禁になったことで朝鮮でも布教が盛んになると、大院君はキリスト教弾圧を決意、1866年2月にフランス人宣教師9名を含む多数の信者を捉え処刑した。これは一説では1万人近くが処刑されたという朝鮮史上最大の宗教弾圧だった(丙寅教獄)。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.34>

激しい排外主義

斥和碑

斥和碑

 1866年は多難な年であった。8月にはアメリカ船が大同江に侵入して上陸を試み、朝鮮の軍と民衆の反撃を受けて1866年9月2日に焼き払われたシャーマン号事件が起き、9~10月には宣教師殺害に対する報復としてフランス艦隊が江華島に現れ、さらに漢江を遡ってソウルに迫るという危機が訪れた。大院君は屈することなく義勇兵や虎猟師を集めて反撃し、11月にはフランス艦隊は撤退した。この年の打ち続いた外国軍の侵攻とそれを撃退した闘いは丙寅洋擾とわれている。
 次いで1868年5月にはドイツ人商人オッペルトとフランス人宣教師フェロンが共謀し、大院君の父南延君の墓を暴こうとして上陸したが失敗して撤退するという事件も起こった。さらに1871年には、シャーマン号事件の謝罪と通商条約締結を要求してアメリカ艦隊が来寇した。特命全権大使ローとロジャース海軍少将の指揮する軍艦5隻、兵1230名が江華島海峡を北上したのに対し、朝鮮軍は砲撃を加え、砲台占拠を目指して上陸したアメリカ兵と乱戦となったが、アメリカ軍は砲台占領をあきらめ7月3日に撤退した。これは辛未洋擾という。
 この戦闘の後、大院君は漢城と主な都市に「斥和碑」という石碑を建て、そこに「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国、戒我万年子孫」(外国と闘わないのは和である。和を主とすることは売国である。このことを長く子孫に伝える、の意味)と刻んだ。この大院君の強烈な拝外思想は、儒教(特に朱子学)の大義名分論に基づいた衛正斥邪、つまり正=儒教の伝統思想を衛(まも)り、邪=西洋思想を斥(しりぞけ)るという思想に基づくものであった。

Episode 大院君の父の墓の盗掘事件

 シャーマン号の焼き打ちに怒った上海のアメリカ総領事シュワードは大院君に報復したいと考えた。そこでアメリカ人通訳のジェンキンス、ドイツ人冒険家で朝鮮に詳しいオッペルト、朝鮮から逃れてきたフランス人宣教師フェロンらと陰謀を計画した。それは大院君の父である南延君の墓をあばいて遺骨を大院君との取引の道具に使おうとするものだった。1868年4月、オッペルトを盗掘団長、フェロンを案内役、ジェンキンスが資金を出し、100人ほどの武装隊員を乗せた2隻を組織、盗掘団は5月に忠清道牙山湾に侵入、九万浦に上陸し、墓地のある加耶洞にたどりついた。しかし墓の構造が堅固なため遺骨を掘りだすことに手間取るうちに干潮の時が迫ってきた。遠浅の湾で船が座礁してしまうと(シャーマン号と同じように)住民に反撃され焼き打ちにされる恐れがあった。盗掘をあきらめた彼らは北上して永宗島で大院君への通告文を渡そうとしたが拒否され、砲撃されて隊員2名が死んだ。戦死した一人がスペイン領マニラのフィリピン人だったため、上海でスペイン領事がジェンキンスを領事裁判にかけ、事件が明るみに出た。先祖の墳墓を大事にする儒教的風習を踏みにじられた大院君が激怒したのは言うまでもない。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.30/姜在彦『朝鮮の攘夷と開国』1977 平凡社選書 p.79-112 オッペルトのこと>

明治政府の開国要求

 江戸幕府はペリーの軍事的威圧を背景とした開国要求に応じて1854年に日本は開国し、それに対してあくまで攘夷を唱えていた長州藩と薩摩藩は、1863年、下関と鹿児島湾で外国艦隊の砲撃を受けると攘夷をやめた。日本の攘夷論は信念として確固としたものだったのではなく、倒幕のための口実に過ぎなかった事情が大きい。しかし、先に開国に踏み切った日本は1868年に明治維新を「成功」させたのに対して、朝鮮王朝は大院君の成功体験を引きずり、開国が遅れたことでより困難な状況に立たされていく。明治新政府は1868年、ただちに国書を朝鮮に送り国交を求めたが、大院君政府は酷暑の中に「天皇」とか「勅」などが使われていたことに対し、清を宗主国としている以上、日本がそれらの文字を使用することは認められない、として受け取りを拒否した。この書契問題から日本国内には早くも征韓論が起こった。 

参考 開国と攘夷

 朝鮮がアメリカ軍、フランス軍と戦ってそれを撃退することができたのはなぜだろうか。攘夷に成功したことが大院君の強固な意志の力だけだっとは考えられない。強烈な反撃を受けたアメリカ艦隊の提督が、かつて日本がペリー艦隊に屈したように、朝鮮が簡単に開国に応じるだろうと考えていたことが間違いだったと驚いたと伝えられるが、おそらく近代的な銃砲の装備を持つ外国艦隊を撃退したのは、大院君の改革を支持する民衆の力があったことも間違いないであろう。
 また客観的情勢としてこの時期、アジアでは太平天国(1851~64年)の戦いがあり、アメリカでは南北戦争(1861~65年)が終わった直後であり、フランスはナポレオン3世メキシコ出兵(1861~67年)で苦境に立たされていた、という国際環境も朝鮮に有利に働いたとも考えられる。

景福宮の再建

 大院君は王権の復権の象徴として首都漢城の中心部に景福宮を再建した。景福宮は朝鮮王朝の栄華を物語る建造物であったが壬辰・丁酉の倭乱で焼失していた。1865年に事業に着手し、わずか20日の間に36000人を動員し、応役者には慰労金や物品を支給するなどの措置を取るなど、建設を民衆の力で成功させたように演出したが、しかし実際の費用は莫大になったため大院君は両班や富民からの増税とともに、質を下げた通貨を発行してまかなおうとしたが、それはインフレをもたらし、景福宮再建工事は大院君の支持基盤である民衆の生活を逼迫化させることとなった。 → 景福宮公式サイト

Episode 無頼の徒だった大院君の評価

 彼は本名は李昰応といい、朝鮮王朝の王族李氏の一人にすぎず、もともと前王との縁は遠く、不遇のままに「市井無頼の徒」と交わりながら前半生を過ごしていた。それを当時の勢道政治を行っていた安東金氏の目をごまかすための仮の姿だった、という人もいる。ところが、前王哲宗に実子がないままなくなり、たまたまかれの次男が選ばれて新国王高宗となったことで、事情が一変した。もっともこれも次男が選ばれるように裏で盛んに工作していたとも言われている。さて興宣大院君(略称が大院君)の称号を与えられて政権を掌握したが、急遽、内外の危機に処することとなった大院君は、それまでの両班などの血統にこだわらず、商人や下級官吏を大胆に登用した。このときは無頼の生活をしていたときの人脈が役立ったとも言われている。そのため、従来の特権的な貴族層の反発を受けたが、中央集権化を進め、王朝の支配基盤を中間的な商人層に置くことによって商品経済の展開が始まった。彼の徹底的な排外策は資本主義列強の侵略という民族的危機に対する戦いであり、またその力となったのが旧来の武人ではなく、農民や漁民、猟師たちであったことは注目できる。
(引用)(大院君の排外政策は)単なる封建権力の伝統的鎖国政策ではない。欧米の侵略性を見抜いて、まだ幼弱な国内市場を防衛しようとした民衆、とりわけ中間的商人層の正当防衛行為でもあったというべきであろう。「頑迷固陋」とか「やみくもな排外主義」とかレッテルをはる日本の大院君イメージはまちがっている。<梶村秀樹『朝鮮史』1977 講談社現代新書 p.98,100>

大院君(2) 後半生、繰り返した浮沈

高宗・閔氏政権へ

 摂政大院君の政治が続く中、民衆生活の悪化、両班・富裕層の反発、そしてその強引な政治には反対する勢力も強くなり、高宗が成人して親政にあたることを宣言した1873年には引退せざるをえなくなった。代わって高宗の親政のもとで后である閔妃とその一族が力を持つようになり、大院君の影響力は極力排除されることとなった。
閔氏の開国路線への転換 また、その政治の方向にも変更が加えられ、最も大きな変更は外交に現れて排外主義から開国政策へと転換し、1876年2月、江華島事件での日本の強制に屈して日朝修好条規(江華条約)を締結して朝鮮の開国に応じた。
 高宗と閔氏による開国政策への転換に強く反発する保守派の勢力は、大院君の政権復帰を画策した。隠然とした力を依然としてもっていた大院君もその機会を狙っていた。1881年には大院君の庶子李載先が、閔氏一族と日本の勢力を一掃して大院君の政権復帰を図ったとされるクーデタ未遂事件が発覚、李載先は死刑となり、大院君の立場は一段と悪化した。

激しい政治的な浮沈

壬午軍乱 1882年、日本と結ぶ閔氏政権に反発した下級兵士の反乱である壬午軍乱が起こると、大院君は反乱軍に担ぎ出されていったん政権に復帰した。抗争に要請された形で宮中に入った大院君は閔氏一派の実力者閔謙鎬など要人を殺害し、閔妃も殺害しようとしたがこのときは閔妃は危うく難を逃れた。閔氏政権を後援していた清はこのようなクーデタを認めず、また日本軍の介入に先手をうつため馬建忠に指揮させて軍を派遣し、大院君を捕らえ、天津に拉致してしまった。それ以降、大院君は天津に3年間抑留されることになり、朝鮮の政界から遮断されたが、国内では反閔妃勢力が大院君の帰国を望み、閔氏一派はその帰国に神経を尖らせるという状態が続いた。
甲申政変 壬午軍乱後、清の宗主権が強まり、朝鮮では閔氏政権が復活し、清の力を頼る保守派が力を持つようになると、日本と結んで改革を進めようとした急進開化派(独立党)との対立が激しくなった。1884年に独立党の金玉均らが閔氏と保守派を排除しようとして甲申政変を起こしたが、清が軍隊を派遣し、ただちに鎮圧した。この時も金玉均は大院君を復帰させようとしたがクーデタに失敗し、実現しなかった。
帰国 その後、朝鮮宮廷の高宗と閔妃にはロシアが徐々に発言力を増したため、それを牽制しようとした清の李鴻章は1885年8月に大院君を帰国させ、閔妃に圧力をかけようとした。しかし政権側は帰国した大院君を事実上の幽閉状態に置き、大院君にもかつてのような力と通用する実力はもはやなく、孔徳里の別荘で書画三昧の生活を送るしかなかった。勝海舟とも絵を交換する交友関係があったという。しかし、その存在はその後も日本と清という外国勢力に利用され、担ぎ出されてカギを握ることとなる。

日本に利用される

甲午改革 1894年、日清戦争が始まると日本は朝鮮に親日政権をつくる必要に迫られ、またまた大院君を担ぎ出した。日清戦争中、日本は大院君を重しに据え、高宗・閔妃・改革派が手を組んだ内閣を組織させ、甲午改革と言われる近代化策を進めようとした。しかし、すでに74歳となっていた大院君は老獪で、あわよくば自分の実の孫を皇帝に就けようとして暗躍した。日本に対しては「面従腹背」状態で裏で清と連絡をとっており、日本勢を宮中から排除することを約束したこと手紙の存在が明らかになった。さらに、大院君の孫の李埈鎔イジュンヨンが東学と結んで日本軍を漢城から追い出し国王の廃位を狙ったという容疑で逮捕され、翌年4月に有罪となるという事件がおこり、大院君は「ほとんど発狂」の態となり、漢城を離れ孔徳里の別邸に蟄居させられた。<木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.236>
三国干渉 日清戦争後、朝鮮に対する主導権を握った日本だったが、1895年4月23日にロシア・フランス・ドイツの三国干渉が行われ、日本がそれを受容して遼東半島を清に還付したことから、朝鮮情勢は一変した。清は除外されたものの代わりにロシアの力が増し、日本との力関係が逆転し、王宮内では急速に親ロシア派が台頭した。焦りを感じた日本が、親ロシア派の中心にあると考えた閔氏を排除しようとしたとき、日本にとっては常に信用のおけない大院君であったが、まだその利用価値はあると判断されたのであろう。
閔妃暗殺事件 1895年10月8日、日本公使三浦梧楼らは閔妃暗殺事件を起こした。その事件を大院君とその支持を受けた朝鮮訓錬隊の一部によるクーデタであると偽装しようとした。この計画を立てた日本公使館一等書記官杉村濬の残した記録によると、この時日本は大院君との間でつぎのような約束をしたという(概要)<木村幹『同上書』p.243-244>
  1. 大院君は高宗を輔翼して専ら宮中事務の整理に任じ、一切の政務には関与しないこと。
  2. 金弘集、魚允中、金允植など改革派を政務に充てて改革を決行すること。
  3. 李載冕イジェミョン(大院君の長男)を宮内大臣とすること。
  4. 李埈鎔を(逮捕を取消し)日本に留学させること。
 しかし、クーデタ当日、予定された深夜に日本の実行者たちは大院君邸に赴き、引っ張り出そうとしたが、大院君はすぐに立とうとせず手間取り、午前3時頃、岡本柳之助らの守る輿に乗って王宮に向かった。そのため、夜中に実行する予定だった計画は早朝にずれ込み、実行部隊が王宮に押し入って閔妃・その他の要人を殺害したことが、宮中にいいた外国人にも目撃されることとなってしまった。そのため、大院君がクーデタを決行し、日本軍は要請されて混乱を鎮めるために出動した、という筋書きが崩れ、日本公使館員、日本軍、日本人壮士が実行したことが明らかになってしまった。
 宮中に入った大院君は四度目の政権復帰を果たし、殺された李耕稙に代えて宮内大臣に長男李載冕をあて、事件の翌々日の10日には閔妃の廃妃を決めた。その他、大院君は日本公使館との約束通り、親日派による政府を組織した。しかし、11月にはロシアとアメリカと結ぶ勢力が危機感を持って相次いでクーデタ未遂事件を起こすという不安定な状況となった。この間、大院君は王宮に留まっていたが、大院君は再び親衛隊を利用して高宗を追い出し、孫の李埈鎔を王位に就けようとしているのではないか、などの噂が飛び交い、高宗の身辺は緊張感に包まれていた。また高宗は孤独感を強めると共に、内閣主導で改革が進むことは自分の持つ伝統的な国王の専制権力を奪うことであると、強く反発するようになった。
高宗の露館播遷 1896年2月11日、国王高宗は突然、王宮を離れてロシア公使館に身を移した。この露館播遷はロシアの保護を受けて国王の専制権力を回復しようとする高宗の一種の賭けであり、それが成功したと言える。それによって民衆の支持の無いまま断髪令などの近代化を進めようとしていた改革派金弘集内閣は瓦解し、また王宮の中で王位の奪回を狙っていた大院君の野心をも砕くこととなった。

大院君の死

 大院君は、高宗の露館播遷の頃からかつてのような求心力を失い、孔徳里の別邸で事実上の軟禁状態に置かれ、妻と二人、静かな生活を送る老人となった。その間、1897年に朝鮮王朝は大韓帝国と国号を代え、高宗は国王から皇帝に称号を代え、亡き閔妃が明成皇后となった。このとき、大院君には大院王という称号が与えられた。11月には明成皇后つまり閔妃の国葬が改めて挙行された。この時の大院君、いや大院王の心境を伝える書物は見あたらない。その2ヶ月後の1898年1月8日、大院君の正妻、驪興府大夫人が死去、翌月2月22日に大院君自身が世を去った。
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書籍案内

梶村秀樹
『朝鮮史』
1977 講談社現代新書

中塚明
『近代日本と朝鮮』
1969初刊 1994第三版
三省堂新書

姜在彦
『新訂朝鮮近代史』
1985 平凡社選書

趙景達
『近代朝鮮と日本』
2012 岩波文庫

金重明
『物語朝鮮王朝の滅亡』
2013 岩波新書

木村幹
『高宗・閔妃』
2007 ミネルヴァ書房