ダヤン=ハン
15世紀末にモンゴルを統一し、明を圧迫したタタール部のハン(王)。
15世紀末から16世紀にかけて、明代にモンゴルの勢いを復興させた中興の祖といわれる人物。モンゴル人でタタール部に属し、オイラト部のエセンの死後のモンゴルの分裂を統合し、フビライの血筋を継承したとして1487年にハンとなった。モンゴル系遊牧部族と婚姻関係を結び、部族連合からなるモンゴル遊牧国家を再建、6つの万人隊(トゥメン=万戸)をつくり、3トゥメンずつを左右に分け、「左翼」をゴビ砂漠東北方面に、「右翼」を南西に配置した。そのうち左翼の3トゥメンはハンに直属し、チャハル、ハルハ、ウリヤンハンという。右翼の3トゥメンは副王が指揮し、オルドス、トメト、ヨンシエブといった。ダヤン=ハンは1524年に死ぬが、その後は左翼、右翼のトゥメンは対立抗争を繰り返していく。
ダヤン=ハンは明との間で盛んに朝貢貿易を行ったが、その死後は内紛が起こって朝貢貿易は行われなくなった。ダヤン=ハンの孫のアルタン=ハンは、朝貢貿易の再開を求めて、たびたび明を脅かし、北虜南倭のうちの北虜といわれるようになる。
ダヤン=ハンは明との間で盛んに朝貢貿易を行ったが、その死後は内紛が起こって朝貢貿易は行われなくなった。ダヤン=ハンの孫のアルタン=ハンは、朝貢貿易の再開を求めて、たびたび明を脅かし、北虜南倭のうちの北虜といわれるようになる。
ダヤン=ハンは称号
モンゴルでは「大元」を「ダイオン」と発音していたが、明代にはなまって「ダヤン」と発音されるようになった。明代モンゴル中興の祖といわれるダヤン=カアン(ハン)は実は個人名ではなく、「大元カアン」という称号に基づくものであった。彼らも自分たちの国は「大元ウルス」だと思っていたのである。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 1996 講談社現代新書 p.42>