民変
明朝の末期、16世紀末から17世紀にかけて、都市の下層民が起こした反税、反権力闘争。明から清への交代の社会的背景となった。
中国の明代末期から清代初め(明末清初という)の時期、特に16世紀80年代から17世紀の30年代に起こった、都市の下層市民による、反税・反権力闘争。全国的な流通経済の発展によって全国にひろがり、江南デルタの蘇州や港湾都市の広州、福州などの大都市から景徳鎮などの中小都市でも起こった。商工業の発展に目をつけた明朝政府が、都市民に対して商税を増徴しようとたことに対して起こされたもの。明朝の中央では万暦帝の後半から宦官が実権を握り、反対派の官僚の東林派を盛んに弾圧する事件が相次ぎ、政治が乱れていた。
魏忠賢と開読の変 明の天啓帝のとき、その寵愛を受けて実権を握ったのは宦官の魏忠賢であった。魏忠賢は無頼漢あがりの無学な男で字も読めず、上奏文などは他人に読ませて命令を下したといわれ、多くの官僚を子分にして反対派の官僚を「東林党」と呼んで苛酷な弾圧を加えていた。1626年、魏忠賢は東林党の一人で清廉な人物として知られていた周順昌を郷里の蘇州で逮捕しようとして役人を派遣した。するとその逮捕に抗議する多数の蘇州の生員(科挙受験のための国子監の入試に合格し、鄕試の受験資格のある者)や庶民が大雨の中、開読(勅旨を世読み上げること)の行われる西察院につめかけ、小競り合いになって役人の一人が殴り殺された。知県などが説得して解散させた後、ひそかに周順昌は北京に送られて拷問にかけられ獄死した。蘇州でも首謀者とされた五人が捕らえられ、打ち首獄門となった。この事件は暴動としては大きくはなかったが、庶民が立ち上がり処刑された五人も死に臨んで従容としていたことが、魏忠賢をはじめとする宦官だけでなく、地方の士大夫と言われる知識人層にも衝撃を与えた。<岸本美緒他『明清と李朝の時代』世界の歴史 中央公論社 p.188-190>
民変の例
蘇州での民変・織傭の変 1601年に起こった蘇州の民変の場合は次のような経緯をとった。蘇州は絹織物を中心とした当代一の商工業都市として繁栄していたが、そこに赴任した徴税使は、城門に税関を設け、通行する商人から商税の取り立てを開始、さらに織機にも課税しようとした。それに反発した商人はストライキ(罷市)を始め、職工(機織り職人)は暴動を起こした。徴税使は逃げだし、官憲が暴動の首謀者を捕らえようとしたところ、葛成という職工が名乗り出て、罰としての鞭打ちの刑を受け、暴動は収束、商税は廃止されて目的を達することができた。これを織傭の変という。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.457-460>魏忠賢と開読の変 明の天啓帝のとき、その寵愛を受けて実権を握ったのは宦官の魏忠賢であった。魏忠賢は無頼漢あがりの無学な男で字も読めず、上奏文などは他人に読ませて命令を下したといわれ、多くの官僚を子分にして反対派の官僚を「東林党」と呼んで苛酷な弾圧を加えていた。1626年、魏忠賢は東林党の一人で清廉な人物として知られていた周順昌を郷里の蘇州で逮捕しようとして役人を派遣した。するとその逮捕に抗議する多数の蘇州の生員(科挙受験のための国子監の入試に合格し、鄕試の受験資格のある者)や庶民が大雨の中、開読(勅旨を世読み上げること)の行われる西察院につめかけ、小競り合いになって役人の一人が殴り殺された。知県などが説得して解散させた後、ひそかに周順昌は北京に送られて拷問にかけられ獄死した。蘇州でも首謀者とされた五人が捕らえられ、打ち首獄門となった。この事件は暴動としては大きくはなかったが、庶民が立ち上がり処刑された五人も死に臨んで従容としていたことが、魏忠賢をはじめとする宦官だけでなく、地方の士大夫と言われる知識人層にも衝撃を与えた。<岸本美緒他『明清と李朝の時代』世界の歴史 中央公論社 p.188-190>