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儒林外史

清の代表的長編小説の一つ。18世紀前半、呉敬梓の作。清代の科挙と官僚を風刺的に描く。

 清の文化を代表する文学のひとつ。作者の呉敬梓ごけいしは名門に生まれたが、遊侠の生活を送って家を失い、科挙にも失敗し、貧困生活を送りながら小説『儒林外史』を著し、1748年に完成させた。全55回からなる白話長編小説である『儒林外史』は、明代の士大夫といわれた知識人層の生活を舞台にしているが、同時代の明代中期(18世紀前半)の科挙制度の批判と官僚の腐敗堕落を鋭く諷刺する内容になっている。中国文学の中で明代に盛んになった白話(話し言葉)で書かれた小説のジャンルに入る。

作者呉敬梓

 呉敬梓(1701-1754)は安徽省全椒県の名門の出身だが、科挙に合格して官僚となることを至上視する伝統中国の価値観に背を向けて、詩文や芝居に憂き身をやつし、気の合った友人との交際を楽しむ、気ままな生涯を送った。
 呉敬梓の生まれた一門はかつて科挙合格者を多数出した名門であったが、曾祖父以後、祖父も父も科挙に合格できず、次第に没落した。叔父の養子となり、科挙受験の準備教育を受けたが、初歩段階の院試になかなか合格できなかった。それは科挙で問われる文章力は形式的・装飾的な対句を用いた八股文であったが、呉敬梓はそれが嫌いで気の向くまま自由に表現する文を好んだからだった。ようやく叔父の死後に発憤して23歳で院試に合格し秀才となり、財産を相続した。養子の立場だったので財産争いが起きたので嫌気がさし、大都会南京に通い花柳の巷に入り浸って散財してしまった。このときの放蕩生活の体験が儒林外史でも活写されている。放蕩生活で財産を失い、はたと気づいて郷試の受験を決意し、予備試験は首席で通ったが、本試験では落第してしまい、これを機に科挙に深い不信と憎悪を持つようになった。
 最後の財産の自邸を売り払い、33歳で南京に転居、再婚して良妻に恵まれ、詩文作りなどの風流な生活を送った。ちょうど雍正帝が亡くなり、1735年に乾隆帝の即位を記念して中央官僚の特別試験が実施されることになり、呉敬梓もそのチャンスがあったが、きっぱりと断り、二度と科挙を受験することはなかった。その直後から『儒林外史』の執筆を開始、足かけ13年の歳月をかけ、1748年に完成させた。呉敬梓が貧窮に迫られながら『儒林外史』を執筆し続けた間、妻の葉氏は文句も言わず、良き協力者としてバックアップした。彼女には詩文の才能もあったとされるので、おそらく『儒林外史』の最初の読者として夫に助言したと思われる。『儒林外史』は呉敬梓の生前は刊行されず、1754年の死後の乾隆年間、1768~1779年の間に揚州で刊行された。それ以来、今日まで広く読まれ、中国文学史上、近代文学の入り口に当たる作品としての光芒を放っている。<井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.220-230>
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井波律子
『中国文章家列伝』
2000 岩波新書