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チョーサー

14世紀後半、イギリスの詩人、文学者。『カンタベリ物語』を著し、イギリス・ルネサンスを代表する文学者とされ、イギリス国民文学の祖とも言われる。

 チョーサー Geoffrey Chaucer 1340?~1400 は、イギリスのルネサンスを代表する国民文学『カンタベリ物語』を書いた人物。イギリス王室に仕える役人として、イタリアに赴任し、ボッカチォペトラルカの文学に接し、自らも英語で物語や詩文を書いた。作品はいくつか知られているが、その代表作は1391年ごろに書いた『カンタベリ物語』で、カンタベリに巡礼に集まったさまざまな階層の人びとがそれぞれ物語るという形で、人間の欲望や諧謔などを面白く描いた。これは英語で書かれた文学としては最も早く、イギリス文学の出発点にある作品として評価されてチョーサーを「英詩の父」と呼ぶ人もいる。

『カンタベリ物語』を著作

 1391年ごろ、代表作『カンタベリ物語』を発表、ボッカチォの『デカメロン』にならい、カンタベリ大聖堂にやってくる巡礼たちが旅の体験を物語るという体裁を取り、本編は24編に及び、未完であったが国民的な支持を受けた。それはこの書がラテン語ではなく、当時のロンドンの方言で書かれていたからであり、この書によって「英語」による文学が確立したとも評されており、

チョーサーの生涯

 チョーサーは専門の詩人や文学者だったわけではなく、イギリス王室に仕える官僚・役人であった。資料は十分でなく、その生涯は判らないことが多いが、1340年ごろロンドンの富裕なぶどう酒商人の子として生まれた。ぶどう酒商人は当時裕福な者が多く、宮廷にも商品を納めるものも多かったので関係ができたと思われるが、はじめはエドワード3世プランタジネット朝)の第三王子の奥方の近習として宮廷に仕えた。百年戦争では遠征軍に加わった(1359年か)が、捕虜となり、王に身代金を払ってもらい帰国した。その後、王の4男ランカスター公ゴーントに仕え、その第三夫人の姉と結婚、生涯ランカスター公の保護を受けた。
 30歳頃から10年のあいだ、何度も外交関係の用務でフランスやイタリアなどの海外に出た。イタリアにも二度行き、ジェノヴァやフィレンツェを訪ね、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチォなどの文学に接したと思われる。イギリスに帰ってからはロンドン港の税関検査官やケント州選出の議員、テムズ川の修復事業などを務め、50歳過ぎてサマセット州にある王室林の副林務官途なったのを最後に公務を退き、1400年にウェストミンスター寺院の一隅でなくなった。この間国王はリチャード2世(在位1377~99)・ヘンリ4世(在位1399~1413)と代わり、チョーサーは三代の国王に仕えたことになる。
 役人生活を送りながら、フランス語の愛の寓意詩『ばら物語』を訳出したりしているうちに文学に関わるようになり、現在でいえば恋愛心理小説にあたる『トロイルスとクリセイダ』のような大作を書いて評判になった。その中で彼の名を不朽のものにしたのが、1391年ごろの作品と思われる『カンタベリ物語』であった。<斎藤勇『カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛』1984 中公新書 p.4-6>
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斎藤勇
『カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛』
1984 中公新書