地動説
地球は太陽の廻りで円運動をしているという天文学上の見解。科学的な地動説は16世紀のコペルニクスに始まる。
地球を宇宙の中心において不動のものと考え、太陽や月、遊星や恒星はすべて地球の周りで円周運動を行っているというのが天動説であったが、全くそれを逆転させ、われわれの住む世界が球体をなしており、しかも空間に浮かんで円周運動をしているという地動説である。
コペルニクスの地動説の概念図
A.アーミティジ/奥住喜重訳
『太陽よ,汝は動かず
―コペルニクスの世界』
1962年 岩波新書 p.145
中世キリスト教世界ではスコラ哲学が隆盛し、聖書に示されている神によって作られた宇宙とはプトレマイオスが示したような地球中心の世界であり、太陽その他の天体が地球の周りを回っているという天動説がローマ教会公認の宇宙観として続いた。しかし、12世紀ルネサンスと言われる時期に、イスラーム文化を介在してギリシア語文献が知られるようになったことを契機に、新たな動きが出てきた。
14~16世紀のルネサンスは、大航海とともに新しい理念や知見を人々にもたらしたが、そのような時代に登場したのがポーランド人のコペルニクス(1473-1543)であった。彼は聖職者でありながら天体観測を続け、1543年に『天体の運行について』という主著を刊行した。彼はその書で、太陽は宇宙の中心にあって動かず、地球が太陽の廻りを年に1度の周期で回転、さらに1日に1回、自転を行っていると主張した。
古代ギリシアの宇宙観
その最も早い見解としては、ギリシアのピタゴラスとその後継者フィロラオスに見ることができる。ピタゴラスは初めて地球を球体であると唱え、他の天体と同じく円運動をしていると考え、フィロラオスはすべての天体の円運動は中心火(太陽ではない)の廻りで行われていると説いた。またギリシアの代表的哲学者であるプラトンは、宇宙は球体の地球を中心とした広大な球面としてとらえ、太陽や月や遊星が同心円を描いて回転しているとしている。しかし、イデア論を提唱しているプラトンは実験や観測は軽視していたので、観念的な理論に終わっている。プラトンの弟子のアリストテレスは、あらゆる学問の体系化を進めたが、プラトンのイデア論に対して、現実世界の観察を重視したが、その宇宙観は地球を宇宙の中心に据え、宇宙は球体の外郭をもつ球体と考える結論に達し、古代における天動説を完成させた。アリスタルコスの地動説
ギリシア天文学の中には、アリストテレスの理論では、遊星の動きを説明できないことに気がついた人々もいた。遊星(火星や金星など)は実際には地球と同じく太陽を回っているので、地球から見ると他の恒星と異なって単純な軌道を描かない。そのことはバビロニアの古代人も気がついていたが、ギリシア人はさらに精密に観測し、前3世紀のヘレニズム時代のアレクサンドリアで活動したアリスタルコスは、遊星の動きをアリストテレスの説では説明できないとして、太陽は動かず地球がその周りを回っているという地動説を主張した。しかしアリストテレスの宇宙観は依然として権威であったため、アリスタルコスの説は忘れ去られ、さらにローマ時代の紀元後2世紀、同じくアレクサンドリアのプトレマイオスは、当時の最高水準での天体観測の結果として、地球を中心として太陽その他の天体がその周りを回転しているという天動説を詳細に論じ、それが定説とされるに至った。コペルニクス
コペルニクスの地動説の概念図
A.アーミティジ/奥住喜重訳
『太陽よ,汝は動かず
―コペルニクスの世界』
1962年 岩波新書 p.145
14~16世紀のルネサンスは、大航海とともに新しい理念や知見を人々にもたらしたが、そのような時代に登場したのがポーランド人のコペルニクス(1473-1543)であった。彼は聖職者でありながら天体観測を続け、1543年に『天体の運行について』という主著を刊行した。彼はその書で、太陽は宇宙の中心にあって動かず、地球が太陽の廻りを年に1度の周期で回転、さらに1日に1回、自転を行っていると主張した。
地動説に対する弾圧
コペルニクスはその年に病死したが、この地動説を体系的に述べたこの書は天文学者に大きな影響を与え、ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)は地動説を発展させて、太陽でさえ不動のものでなく動いているという宇宙観に到達し、危険思想として1600年に教会の手によって異端の烙印を押され、処刑された。さらにガリレイ(1564-1642)は、初めて本格的な望遠鏡を作成して天体観測を続け、コペルニクスの説をデータの上で証明した。しかし教会によって裁判にかけられ、1616年にその著作とともにコペルニクスの書も教会の禁書目録に入れられてしまった。ケプラーとガリレイ
ブルーノやガリレイとほぼ同じ時期のデンマーク生まれのティコ=ブラーエ(1564-1601)は、望遠鏡が実用化される前に、星の高度を測定するための装置を考え出し、コペルニクスのデータの不備を補おうとした。その結果、諸遊星は太陽の周りを回っているが、その一方、太陽と月はそれぞれ固有の周期で地球の周りを回転していると考えた。トラブルのためにデンマークを去り、プラハに移って1601年に死んだが、晩年のティコ=ブラーエの助手として仕えたのがドイツ人のヨハネス=ケプラー(1571-1630)であった。ケプラーは師のティコ=ブラーエの残したデータを数学的に分析し、惑星運動が単純な円運動ではなく、楕円軌道を描くこと、またその速度も一定でないことなどを明らかにして、「ケプラーの三法則」を定式化し、地動説を数学的に証明したと言える。ケプラーはプロテスタントであったが、イタリアのカトリック教徒という立場にあったガリレオ=ガリレイは、望遠鏡を実用化してさらに精密な観測を行い、地動説を証明したが、ガリレイは1616年の最初の宗教裁判にかけられて、地動説の著述と教授を禁止され、コペルニクスの著作も禁書目録に入れられてしまった。地動説の勝利 ニュートン
ケプラーやガリレイは、地球を含む惑星が太陽の周りを回っていることを余すところ無く明らかにし、教会による否定にもかかわらず、合理的な世界観として一般に受け入れられるようになった。しかしなお、その運動の力はどこから来るのか説明できる学説はなかった。そこに出てきたのがニュートン(1642-1727)であった。ニュートンはイギリス経験哲学の流れをくみ、実験と微積分法による軌道計算など数学的理論化をすすめ、1687年にその学説を公表した。このニュートン力学は「万有引力の法則」として知られ、惑星運動も太陽の引力によるものとして説明され、これが最終的に地動説は疑いのない真理とされるに至った。