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ケプラー

ドイツ人。1609年に天体の運行に関するケプラーの法則を発表し、地動説を理論づけた。

 ヨハネス=ケプラー Johannes Kepler(1571-1630) 17世紀の科学革命を代表する人物の一人。1571年、ドイツに生まれた。父は大酒飲みで傭兵としてスペインやローマで戦ったりしたあと、居酒屋を経営した。ケプラーは家の手伝いをしながら病弱な体に負けず、チュービンゲンのプロテスタント大学で学位を取った。そこで数学と天文学を学び、グラーツで教師の職を得て天文学の研究に没頭した。そのころ16世紀初めのコペルニクスとは異なった独自の観測法によって地動説を主張した天文学者として知られていたティコ=ブラーエがデンマークからプラハに移って研究を続けていることを知り、その名声に惹かれてプラハに訪ね、その弟子となった。
 1年後の1601年(17世紀の最初の年!)にブラーエが死んだため、その観測データを引き継いだ。ブラーエは望遠鏡の無かった時代に四分儀などを使って肉眼で天体を観測し、高い精度のデータを残していた。ケプラーはそのデータを用いて、望遠鏡を改良して天体観測に用い、「ケプラーの法則」といわれる三法則を発表した。しかし、そのころは三十年戦争(1618~1648年)のさなかにあり、保護者であった皇帝ルドルフ2世の死後はプラハを離れ、戦いを避けながら各地を転々として不遇な生涯を終えた。イタリアのガリレイよりは7歳若く、ほぼ同時代に活躍し、ともに17世紀の科学革命を牽引した。

ケプラーの法則

 「ケプラーの法則」と言われる学説は、1609年の『新天文学』で発表した、「すべての惑星は太陽を焦点とする楕円軌道上を運動し、太陽と惑星を結ぶ線分が均しい時間に描く扇形の面積は一定である」という第一、第二法則、1619年の『世界の調和』で発表した、「惑星の公転周期の2乗は、楕円軌道の長径の3乗に比例する」という第三法則の三法則から成り立っている。これらは、初めて天体の運動を数学的に解明したもので、地動説を実証したとされている。またこのようなデータの基づいて、数学的な法則を明らかにする方法が、17世紀の科学の特徴として鮮明に出てくる。ケプラーの法則は後のニュートン力学の土壌となった。

Episode 魔女裁判にかけられたケプラーの母

 ケプラーの母は「小さな、やせた、色の浅黒い、口ぎたなくて、けんか好きで、心のひねくれた、粗野でおしゃべりの老婆」とケプラー自身が描いているが、1615年70歳の時に魔女狩り役人の手で告発され、裁判にかけられた。ケプラーは母親の入牢を免じてもらおうと奔走したが無駄だった。4年間の獄中生活の後に裁判が始まったが、彼女は自白しなかった。裁判所は拷問道具を見せつけて自白を迫ったが、彼女はすべてを否定したまま気絶してしまった。やがて彼女は釈放されたが、その裁判の進行中にケプラーの三法則の第三法則が発表されている。まさに17世紀は、科学と迷信が交錯していた時代なのだった。<森島恒雄『魔女狩り』1970 岩波新書 p.180>

Episode ケプラーの墓碑銘

 「引き止めるものはないもない。この聖なる熱狂に身を任せよう・・・大目に見られれば躍り上がって喜ぶだろうし、怒りを買っても耐える覚悟はある。賽は投げられ、本は書かれた。いま読まれるか後世に読まれるか、それはどちらでもかまわない。一人の読者を得るために、待たねばならないなら1世紀でもまつ」。1619年に惑星運動の第3法則を発見したとき、ケプラーは喜びにわれを忘れ、正気を失うほど興奮した。・・・彼の発見した法則はコペルニクス体系に数学的枠組みを与えた。この第3法則はまた、ニュートンが万有引力の法則を発展させるのにも大きな影響を与えている。
 死の数ヶ月前、ケプラーは次のような自分の墓碑銘を自分で書いた。
  私はかつて天を測ったが
  いまは地の影を測る
  わが精神は天界を離れることはなかったが
  わが肉体の影はここに眠る
 残念なことに、ケプラーが亡くなって数年後、彼の墓は三十年戦争で破壊されてしまった。<スレンドラ・ヴィーマ/安原和見訳『ゆかいな理科年表』2008 ちくま学芸文庫 p.68-69>