イエズス会
対抗宗教改革の一つの運動体。スペインのロヨラらが1534年、ローマ教皇への服従を誓い、プロテスタントに対抗してカトリックの世界布教を目指す修道会として創設した。会士のザビエルは日本、マテオ=リッチらは中国での布教を行った。
ロヨラとザビエル
ローマ教皇への絶対服従、神と教皇の戦士として伝道に努めることを使命として、1534年にイグナティウス=ロヨラ(スペイン人)らによって結成された修道会。「イエズス会」というのは「イエス=キリストの伴侶」という意味で、「ジェズイット教団」ともいう。日本では「耶蘇会」と言われる。1540年に教皇パウルス3世から認可を受け、対抗宗教改革の先頭に立って、活動を開始した。
ロヨラとザビエルはスペインのバスク地方の出身で、パリに出てパリ大学に学びながら、人文主義の影響を受け、当時ヨーロッパ各地で猛威をふるうプロテスタントによる攻勢から、カトリック教会の信仰を守るには、カトリック教会自身の改革も必要であると考えるようになった。それは教皇を批判するのではなく、教皇に絶対服従する強固な信仰で実現できるという信念から、イエズス会は対抗宗教改革の実戦部隊となっていった。
イエズス会はアメリカ南北の新大陸での布教も積極的に行い、当初はスペインやポルトガル、フランスのカトリック国王の保護を受け、その保護の下で布教を続けたが、同時に植民地の開拓にも協力した。これらの国々の植民地開拓にはイエズス会などのカトリック修道士の力が大きかったが、18世紀になると植民地における先住民の扱いや収穫物の分配などをめぐって、イエズス会は入植者と衝突するようになった。また、国内での王権の強化をはかる絶対王政が成立してくると、イエズス会のような強固な集団は王権を脅かす存在として意識されるようになった。中央集権化を進める絶対主義諸国の国家政策は、イエズス会の存在を認められないことから、両者の対立がしばしば問題を生じるようになっていった。
その結果、まず1759年にポルトガルはイエズス会を追放し、その財産を没収するという強硬手段を取った。これはローマ教皇の教皇庁と対立するスペインやフランスなど、王権至上主義を掲げる国に波及し、1767年にはスペインがその海外領土からイエズス会士の追放を命じた。カトリック国からの教皇庁に対するイエズス会禁止の圧力は次第に強まり、1773年には教皇クレメンス14世の回勅(教皇の決定)によって解散させられた。
イエズス会の中心思想はロヨラの提唱する『霊操』(宗教的真理に達するための瞑想)にもとずく会則のもと、徹底した教皇への服従と、軍隊的な規律であったと言われる。また布教にあたっては、子供の教育や女性を通じて自然に信仰心を育てるという手段を重視し、各地に学校を設立した。イエズス会系列の教育機関は世界中に拡がっている。
ロヨラとザビエルはスペインのバスク地方の出身で、パリに出てパリ大学に学びながら、人文主義の影響を受け、当時ヨーロッパ各地で猛威をふるうプロテスタントによる攻勢から、カトリック教会の信仰を守るには、カトリック教会自身の改革も必要であると考えるようになった。それは教皇を批判するのではなく、教皇に絶対服従する強固な信仰で実現できるという信念から、イエズス会は対抗宗教改革の実戦部隊となっていった。
積極的な海外布教
まずドイツ、オランダなどのプロテスタント地域でのカトリックの復興を進め、ついでアメリカ新大陸、アジアなどの新天地での積極的なカトリックの布教活動を行った。その一環として、フランシスコ=ザビエルは日本伝道を行った。はじめて中国伝道を行ったマテオ=リッチなどもイエズス会員であった。イエズス会の特徴
1540年にローマ教皇によって承認されたイエズス会の会憲では、彼らは通例の修道会(オルド)ではなく、拠点としての修道院に拠らないある種の結社(ソキエタス)であり、それまで見られなかった特異な組織であった。会士は司祭の資格を有し、通例は修道士の行う三つの誓願、すなわち清貧、貞潔、服従のほかに、第4の誓願として「教皇への服従」を行った。さらにイエズス会士に独特なのは、会士が在俗の聖職者である司祭と同じ黒の衣服(スータン)を身に着けていたことである。彼らは司祭の資格を持っていたので当然と言うこともできるが、一般の司祭ではなく、その本質において修道士的性格が濃厚であることはあきらかである。さらに彼らは他の修道士と異なり礼拝堂での聖務日課としての祈祷を免除された。これは世俗での使徒的活動にいそしむことを容易にするための措置であった。その点では既存の托鉢修道会ドミニコ会にも類似しているが、それよりも共同で行う典礼からの離脱の度合いは一層徹底していた。また彼らは大学での教育を受けさせることで、会士に神学と人文学の堅固な教養と知識を与えるように配慮した。<佐藤彰一『宣教のヨーロッパ―大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』2018 中公新書 p.47-49>イエズス会の解散
18世紀の中頃まで積極的な海外布教を展開し、キリスト教宣教師としてラテンアメリカや中国、日本などで信者を増やした。しかしその間、日本では厳しいキリスト教禁教令がだされて国外追放になったり、中国では典礼問題などで他の修道会との対立した上でキリスト教の布教禁止となるなど、苦難が続いた。イエズス会はアメリカ南北の新大陸での布教も積極的に行い、当初はスペインやポルトガル、フランスのカトリック国王の保護を受け、その保護の下で布教を続けたが、同時に植民地の開拓にも協力した。これらの国々の植民地開拓にはイエズス会などのカトリック修道士の力が大きかったが、18世紀になると植民地における先住民の扱いや収穫物の分配などをめぐって、イエズス会は入植者と衝突するようになった。また、国内での王権の強化をはかる絶対王政が成立してくると、イエズス会のような強固な集団は王権を脅かす存在として意識されるようになった。中央集権化を進める絶対主義諸国の国家政策は、イエズス会の存在を認められないことから、両者の対立がしばしば問題を生じるようになっていった。
その結果、まず1759年にポルトガルはイエズス会を追放し、その財産を没収するという強硬手段を取った。これはローマ教皇の教皇庁と対立するスペインやフランスなど、王権至上主義を掲げる国に波及し、1767年にはスペインがその海外領土からイエズス会士の追放を命じた。カトリック国からの教皇庁に対するイエズス会禁止の圧力は次第に強まり、1773年には教皇クレメンス14世の回勅(教皇の決定)によって解散させられた。
イエズス会の再興
王権もしくは国家権力と教皇権の関係は、主権国家体制の確立にともなって王権の優位が確定し、次の段階では王権も教皇、教会、修道会との関係を安定させることが有利と考えるようになって、妥協が成立していった。その流れの中で、イエズス会も1814年に再興され、歴代教皇の保護のもと、組織を拡大し、現在においても最大の修道会として存在している。イエズス会の中心思想はロヨラの提唱する『霊操』(宗教的真理に達するための瞑想)にもとずく会則のもと、徹底した教皇への服従と、軍隊的な規律であったと言われる。また布教にあたっては、子供の教育や女性を通じて自然に信仰心を育てるという手段を重視し、各地に学校を設立した。イエズス会系列の教育機関は世界中に拡がっている。
Episode カトリックの「新撰組」
(引用)ロヨラは、あくまで旧教会内の粛正と旧教会の権威の宣揚とを目的とし、新教に対抗するための旧教会の有力な《新撰組》の発案者ないし頭目として登場し、厳格な組織を持つイエズス会を組織するのに成功した。しかし、イエズス会の組織活動は、現世的な権力を掌握することに熱を見せすぎ巧妙でありすぎるという非難を受けかねなかった。フランス語辞書でイエズス会 Jesuite という語を引くと《偽善者・猫かぶり》という意味も出てくる。つまり、イエズス会士が「本心を隠蔽すること」を堅く守ることから生まれた悪口のようである。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.287-288>