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宗教裁判所

ローマ=カトリック教会が設けた異端取締のための裁判所。宗教改革後は異端とプロテスタントの反カトリック教会の書物や研究を取り締まった。

 中世キリスト教世界では、ローマ=カトリック教会がその正統教義を守るため、異端に対する異端審問魔女裁判が続けられていた。アルビジョワ十字軍が終了した後の1233年に宗教裁判所として恒常的な機関となった。15世紀のスペインの宗教裁判所はイスラーム教徒やユダヤ人に対する迫害のための機関として特に活発に活動した。
 1414年から1418年まで、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)が召集したコンスタンツ公会議は宗教裁判の働きがあり、ボヘミアのフスを有罪として処刑した。またイギリスのウィクリフも同じく異端とされ、遺骸が掘りだされて火刑となった。

ローマの宗教裁判所

 16世紀にドイツでルターの宗教改革が始まり、カルヴァンなどの活動も活発になると、カトリック教会は強い危機意識を持ち、教皇パウルス3世は1545年から1563年にかけてトリエント公会議を召集した。この会議はプロテスタント側との融和を図る目的で召集されたが、プロテスタント側が出席を拒否したため、それを糾弾する色彩が強まり、ここから対抗宗教改革(反宗教改革)が始まることとなった。その中心的な機関となったのが、すでに1542年にローマに設けられていた宗教裁判所(異端審問所)であった。宗教裁判ではプロテスタントだけでなくカトリック教会内の改革派に対しても厳しい審査の目が向けられることとなった。
 特に異端審問で活躍したのが、以前からある托鉢修道士会のドミニコ会と新たに発足したイエズス会という二つの教団であった。異端審問の基準となったのは「聖書」の解釈であり、その解釈は哲学者や自然科学者ではなく、適切な資格をローマ教皇から認められた神学者が行うべきであるとされるようになった。
 異端審問所はローマだけでなくスペインとポルトガルにも設けられていたが、それらは国王の権限での裁判であったのに対し、ローマの異端審問所はローマ教皇の権限のもとにあり、イタリア国内を管轄した。正式には検邪聖省(略して聖省という)という教皇庁の省の一つであった。検邪聖省に所属する10名の枢機卿が異端審問官を務め、教皇が代表となって宗教裁判が行われた。検邪聖省長官の役職はドミニコ会が独占していた。その業務の多くは検閲であり、出版物を取り締まって禁書を指定する権限を有していた。
宗教裁判の実際 宗教裁判には現在の裁判と大きく異なる点があった。<田中一郎『ガリレオ裁判』2015 岩波新書 p.22-29>
  • 有罪か無罪かを争う場ではなく、被疑者となった者は疑いが晴れるまで有罪とされた。(有罪が確定するまでは無罪という考えではなかった。)
  • 異端審問官は裁判官であり検事でもあった。弁護士は置かれていない。(告発理由と告発者を知る権利や弁護を求める権利はなかった。)
  • 裁判の大半は文書で行われ、異端審問官が被告と直接顔を合わすのは最後の判決を言い渡す時までなかった。(被告を訊問するのは検邪聖省の事務官の役目だった。)
  • 裁判の目的は犯罪行為を究明して処罰することではなく、被告に異端思想を抱いていることを自覚させ、贖罪の機会と手段を与えることにあった。(異端者を改宗させ、教会と和解させることが目的だった。)
  • 被告が告解(自白)をしない場合には拷問が行われた。自白し、罪を認めれば異端聖絶文に署名し、罰を受ける。罰は断食、巡礼などの軽微なものから鞭打ち、投獄などの段階があった。罪状を認めなかった場合は世俗的権力に引き渡され火あぶりになることもあった。
ガリレオ裁判 三十年戦争(1618~1648)はそのような宗教的寛容が著しく狭くなった時期であり、その最中に起こったのが16世紀のコペルニクス地動説の正しさを改めて論じたガリレイに対するガリレオ裁判であった。
 第1回の裁判は1616年に行われ、そこではガリレイは有罪とはならなかったが地動説を人に説いたり、教えたりすることは禁止された。そのガリレイが1635年に『天文対話』を刊行したことが命令に違反したとして告発されたのが1636年の第2回裁判で、その審議をつうじて有罪が確定し、ガリレイは地動説が異端説であることを認め、自宅軟禁の処分を受けた。なおその後の自然科学の発達は、天動説が誤りであり、地動説が正しいことを明らかにした。そのため、ローマ教皇庁は20世紀の終わりに近い1983年に、ようやくガリレオ裁判が誤ったいたことを認め、ガリレイに無罪を言い渡した。
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田中一郎
『ガリレオ裁判』
2015 岩波新書