オランダ総督(総統)
スペイン王の代官を意味したが、ネーデルラント独立後は共和国の最高官職となった。単に総督でもよく、統領とも訳される。初代は独立運動を指導したオラニエ公ウィレムで、その後もオラニエ家が世襲した。オランダは連邦の7州の中の最大の州で首都のアムステルダムもその州にあったので、オランダ総督と称された。1795年まで続いた。
本来はネーデルラントがスペイン領であった時代に各州に置かれた国王の代官を意味した。1555年にはスペイン王フェリペ2世に仕えるオラニエ公ウィレムがオランダ(ホラント)、ゼーラント、ユトレヒト3州の総督を兼任、その中心のアムステルダムがオランダにあったので、単にオランダ総督と言われた。しかし、カルヴァン派のプロテスタントが多くなった北部ネーデルラントの住民に対し、スペインがカトリック信仰を強制すると、オラニエ公自身もカルヴァン派の信仰を持つようになり、次第に独立を目指すようになった。
しかしバタヴィア共和国はナポレオン1世によって1806年に倒され、弟のルイ=ボナパルトを国王とするオランダ王国となったが、まもなくフランスに併合された。その後、ナポレオン没落後のウィーン会議において1815年にオラニエ家が王家として復活し、オランダ立憲王国となる。
オランダ連邦共和国の元首
オラニエ公は1568年にオランダ独立戦争を開始し、1581年にはスペインからの独立宣言をおこない、オラニエ公はネーデルラント連邦共和国の初代総督に選ばれた。このときからオランダ総督はスペインの代官ではなく、独立国の最高権力者の地位を意味するようになった。 オランダ総督の地位は形式的には共和政国家の元首であるが、オラニエ家に世襲されたので、実質的には王位と同じ存在であった。ただし、数年にわたる無総督の時期もあった。 → オランダ総督位の消滅とオラニエ家の復活
ネーデルラント連邦共和国の内部では、次第にオラニエ家の絶対王政を主張する勢力、立憲君主政を求める勢力、完全な共和政を主張する勢力などが抗争するようになり、政治は安定しなかった。そのような中でフランス革命が起こるとその影響で共和派が台頭し、1795年にネーデルラント連邦共和国が解体され、バタヴィア共和国が成立したことによってオランダ総督の位も消滅した。しかしバタヴィア共和国はナポレオン1世によって1806年に倒され、弟のルイ=ボナパルトを国王とするオランダ王国となったが、まもなくフランスに併合された。その後、ナポレオン没落後のウィーン会議において1815年にオラニエ家が王家として復活し、オランダ立憲王国となる。