私拿捕船/私掠船
16~17世紀のイギリスなどで盛んにみられた、私的な船団で国王から特許を得て海賊行為を行った船。主権国家体制の整備に伴い減少し1856年に国際的に禁止が決まった。
しだほせん/しりゃくせん。16~17世紀の絶対王政の前世紀のヨーロッパで、国王や地方長官が、特定の個人または団体に特許を与えて、外国の艦船を拿捕・略奪することを認めたもの。掠船(私略船)ともいう。英語では privateer 。戦利品の10%は委託者(国家または地方長官)に納められた。イギリスだけでなく、ヨーロッパ各国で行われたが、有名なのは、16世紀イギリスのエリザベス1世時代のフランシス=ドレーク。彼はアメリカ植民地から帰航するスペインの財宝船をねらい、大きな利益を上げた。しかしその実態は、海賊そのものであった。
フランス革命後のナポレオン戦争を収拾したウィーン体制下、神聖同盟による協調が進み、さらにイギリスの産業革命によって交通・通信手段が格段に進歩し、各国の通商関係が活発になった結果、1856年に「海上法の要義を確定する宣言(パリ宣言)」が合意され、私掠船を禁止すると共に中立船と中立貨物の保護の原則が建てられた。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.7-8>
私掠船の禁止
アメリカの独立、フランス革命等を経て絶対王政が崩れ近代的な主権国家体制が形成され、フランス革命戦争を通じて国民軍が生まれてくると、戦争や捕虜に関する国際法の整備が意識されるようになった。1792年5月3日にはフランスの立法議会で「私掠船の抑圧に関する宣言(案)」前文で、戦争は諸人民の主権のもっとも重要な行為であるから、私人によってではなく、国民自身によってのみかつ国民のためにのみ合法的になされるうるとして、「私掠または私掠船により戦争をおこなう慣習を禁止し放棄することは、ヨーロッパのすべての文明国の利益である」と宣言することが議論された。このときは国の執行部が通商のための自由な航行を確保するため外国と交渉するよう促す1カ条が成立しただけに留まったが、このころから国際戦争は、陸戦では正規の国民軍により、海戦では軍艦により、つまり国の機関によりおこなわれるべきこととされるようになった。フランス革命後のナポレオン戦争を収拾したウィーン体制下、神聖同盟による協調が進み、さらにイギリスの産業革命によって交通・通信手段が格段に進歩し、各国の通商関係が活発になった結果、1856年に「海上法の要義を確定する宣言(パリ宣言)」が合意され、私掠船を禁止すると共に中立船と中立貨物の保護の原則が建てられた。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.7-8>