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立法議会

フランス革命期の1791年に成立した立憲君主政のもとでの制限選挙による議会。当初の立憲君主主義者に代わって穏健共和派のジロンド派が優勢となり、革命防衛のための対外戦争を主導した。1792年9月解散。

 フランス革命が進行する中、国民議会1791年憲法を制定して解散した後、その憲法の規定で制限選挙が実施され、1791年10月1日成立した議会を立法議会 Assemblée Législative という。憲法に続く諸法規の制定を任務とした。1791年10月~92年9月の約1年間存続した。

立憲王政か共和政か

 立法議会は国民議会の議員だったものは立候補できない規定だったので、大多数が年若い新人たちで構成され、勢力分布はフイヤン派(立憲王政を主張)=264名、ジャコバン=クラブ(主流は共和政を主張するジロンド派。ほかにパリを拠点としたコルドリエ=クラブも含む)=136名、無所属345名であった。 無所属のうち過半数はほとんどいつもジャコバン=クラブに賛成の投票をした。この立法議会では、穏和な中間派を多数を占め、右翼としてフイヤン派、左翼としてジャコバン=クラブの中の共和派であるジロンド派が主導権を争った。フイヤン派はバルナーヴ、デュポール、ラ=ファイエットら、ジロンド派はブリッソ、コンドルセ、ロラン夫妻、ヴェルニョ、ジャンソネ、ガデ、イスナールなどであった。後のモンターニュ派につながるクートンらも活動始まる。

対オーストリア・プロイセン戦争を議決

 1792年3月、ジロンド派が優勢となり、内閣を組織し、王政廃止・共和政の方向が明確になると、フイヤン派は強く反撥するようになった。ブリッソらジロンド派の指導者は、国民の目を対外戦争に向けるために、4月には対オーストリア開戦を立法議会で可決し、外国の干渉に対する戦争を開始した。しかし、戦況は不利に動き、ジロンド派内閣に対する不満が強まって辞任に追いこまれ、フイヤン派が政権に復帰した。

8月10日事件

 1792年7月11日に立法議会は「祖国は危機にあり」を宣言して各地の連盟兵(義勇兵)に防衛戦争に起ちあがることを訴えた。このとき、マルセイユの連盟兵が歌ったラ=マルセイエーズは後にフランス国歌とされる。パリに結集した連盟兵と、彼らを迎えたサンキュロットといわれる革命派の下層市民は、フイヤン派主導の立法議会に対して不信を強め、ジャコバン=クラブの中に急進的な山岳(モンターニュ)派に指導されて、1792年8月10日、テュイルリ宮殿に侵入し国王一家を捕らるという8月10日事件が起きると、立法議会は王権の停止と新憲法制定のための国民公会の開設を決議して解散することとなった。

立法議会から国民公会へ

 新議会は男性普通選挙によって選出され、国民公会として9月21日に発足した。その前日、ヴァルミーの戦いでフランス軍がプロイセン・オーストリア連合軍を破ったこと画国民公会開会にあたって報告され、歓喜に沸いた新議会は翌日王政の廃止を決議、9月22日、フランス第一共和政が成立した。
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