印刷 | 通常画面に戻る |

エリザベス1世

16世紀後半、イギリス・テューダー朝絶対王政全盛期の女王。イギリス宗教改革を完成させ、重商主義政策をとってイギリス海洋帝国の基礎がつくられた。


Elizabeth Ⅰ
1533-1603
 イギリス(厳密にはイングランド王国)のテューダー王朝メアリ1世の次に王位についたの女王(在位1558年~1603年)。父はヘンリ8世、母はアン=ブーリン。アン=ブーリンは彼女を生んだ後、姦通罪で処刑されていた。しかしメアリ1世の親スペイン政策に不満を強めていたイギリス国民の心をつかみ、宗教問題の解決を進め、国民的な統合を再現して、テューダー朝絶対王政を確立した。彼女は生涯結婚することなく、「わたしはイギリスと結婚した」と自ら言っているように政治に一生を捧げたところから「処女王」といわれて人気が高く、後の人びとからイギリスの繁栄した時代ととらえられた。彼女は結婚しなかったので王位継承者はスコットランドの王家ステュアート家から迎えることとなり、テューダー朝は終わりを告げた。 →イギリスの絶対王政

エリザベス時代のイギリス

 1558年に即位したエリザベス1世の時代のイギリスを、後の大英帝国といわれるようになった18世紀以降のイギリスのイメージで考えると大きな誤りとなる。エリザベスは通例イギリス女王といわれるが、厳密に言えばイングランド王国の女王に過ぎず、正式にはスコットランドは併合していない。また地理的にもヨーロッパ大陸から離れた島国であり、人口はウェールズを含めて300万の小国であった。当時フランスは1500万、スペインは800万で大陸の覇を競っていた。特にスペインはすでに「太陽の沈まぬ国」と言われ、旧大陸・新大陸に広大な領土を持つ帝国であった。それだけにイギリスがスペインの無敵艦隊アルマダ戦争(海戦)で破ったことは驚天動地の大事件だったわけである。<数字は、青木道彦『エリザベス1世』2000 講談社現代新書 p.20>
 言い換えれば、エリザベス1世時代のイギリスは、ヴァロア朝フランスとハプスブルク家スペイン・オーストリアに挟まれた「二流国」であった。しかし、その王権はノルマン人の征服以来、他国にくらべて国内では強大であり、農村の羊毛産業を基礎とした毛織物工業が国民的産業として発達し、マニュファクチュアと国内の統一市場の形成、貨幣地代の普及という経済の新たな仕組みも生まれていた。エリザベス1世の課題は、そのような成長する経済力をいかに統制するかにあった。そこでまず王権のもとでの統一国家の枠組みとして国教会制度を確立し、重商主義政策によって産業を保護統制し、海外への市場開拓を図るとい手段を執った。エリザベス1世はそれらの課題をほぼクリアしたと言える。しかし次の段階は、国教会制度の強制に対するピューリタンの反発が募って行き、また議会では女王の特権商人保護に対する批判が始まり、経済活動の自由を求める声が起こってきた。1603年の女王の死後、ステュアート朝に移行すると、国王たちの宗教政策・経済政策は反動的になり、イギリス革命へと動いていくこととなる。

イギリス宗教改革の完成

 1558年に即位すると、先代のメアリ1世のカトリック政策を改め、イギリス国教会による宗教統制を復活させる決意を固めた。翌1559年には、首長法(国王至上法)を再度制定して、女王は「世俗上の事項と同じように、一切の宗教上・教会上の事項においてもイギリス王国の唯一最高の統治者である」と定め、同年の統一法イギリス国教会でプロテスタント方式での礼拝・祈祷(エドワード6世の時定められた一般祈祷書)を確定した。これはイギリス宗教改革の完成を意味するものとして重要である。また、1563年には、教義の上での新たな信仰箇条を定めて、カルヴァン派の教義を取り入れたが、一方で教会組織ではカトリックの司教制度に近い主教制を採用し、監督・統制にあたらせた。これら一連の国教会体制の強化に対して、ローマ教皇ピウス5世は、対抗宗教改革の一環として1570年にエリザベス1世を破門にし、イギリス国教会とローマ=カトリック教会は決定的に分裂した。国内にはなおもカトリック勢力があり、もとのスコットランド女王でイギリスに保護されていたメアリ=ステュアートをかつごうとする動きがあったが、彼女は1587年2月8日に処刑され、エリザベス1世の王位の安定が図られた。

エリザベス1世の政治

 テューダー朝の絶対王政では国王を中心とした宮廷での、寵臣たちの駆け引きで重要事項が決定されていたが、エリザベス1世の宮廷ではヘンリ8世の1536年頃に成立した枢密院が政策決定の重要機関となった。議会の招集権は国王にあったが、統一法など重要法案は議会で議決されたほか、戦費調達の必要があるとき以外はあまり開催されなかった。特許権の付与をめぐって国王と議会が対立することもあった。地方政治は行政上の州が置かれ、有力なジェントリが治安判事として行政、司法を担当し、その代表は騎士として下院議員となった。

社会政策

 エリザベス1世の時代は無敵艦隊を破り、シェークスピアが活躍するという華々しい時代と見られるが、その社会は中世から近代への移行という、地殻変動が静かに進んだ時代と言うこともできる。社会的には毛織物産業の発展を背景に、第1次エンクロージャーが進行し、労働者階級の形成が始まり、同時に貧富の差の拡大が表面化したため、救貧法を制定した。

外交政策

 前代のメアリ1世の時にカレーを失い、大陸内のイギリス領は完全になくなった。エリザベス1世は即位直後の1559年にフランスと間でカトー=カンブレジ条約を締結し、イタリア戦争を終結させ、イギリスの眼は自然に新天地の海外にむかっていった。一方、フランスでは新旧両派の対立が深刻となり、1562年からユグノー戦争(~98年)に突入するという国内事情が悪化していた。その結果、当初は友好関係を保っていたスペインと海外貿易で競合するようになった。始めは劣勢なイギリス船がフランシス=ドレークらのように海賊行為を働くという程度だったが、次第に両者の対立は鮮明となった。それに加えて旧教国スペインがイギリスの国教会を認めないという宗教対立があり、具体的にはオランダの支援に動いたイギリスを討つため、フェリペ2世無敵艦隊を派遣し、一気にイギリスを潰そうとした。しかしイギリスは幸運に恵まれた感もあるが、1588年アルマダ戦争に勝って海洋帝国としての第一歩を歩み出すこととなった。

重商主義政策

 またアメリカ大陸への進出、1600年東インド会社の設立など積極的な発展策をとり、ローリーを用いて新大陸への進出を図った。ローリー入植は失敗したが、後にヴァージニア植民地が北米大陸最初のイギリス殖民地として成立することとなる。1580年にはオスマン帝国からカピチュレーションを認められ、オスマン帝国への毛織物の輸出を独占させるレヴァント会社を設立した。また前代のヘンリ8世の時の悪貨の濫発で混乱した経済に対し、グレシャムの建言によって悪貨の回収と新通貨の流通に努めた。

イギリス・ルネサンスの展開

 エリザベス1世の時代、16世紀から17世紀初めのイギリスは、シェークスピアに代表されるイギリス・ルネサンスが開花した時代であった。シェークスピアはこの時期、多くの演劇の台本を書き、イギリス文化独特の演劇が隆盛した。文学では詩人エドマンド=スペンサーらが活躍した。美術では独自なものは現れなかった。