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高等法院

フランス絶対王制下の最高司法機関で貴族の拠点となり、1648年のフロンドの乱では乱を首謀した。さらに18世紀後半には王権と対立。

 高等法院(パルルマン)は13世紀のルイ9世の時、国王会議から分離し、独立した司法機関となった。はじめ国王裁判権に属する聖俗の貴族や都市に関する事案のみを審理したが、次第に裁判の審級制が形成され、初審、二審に続く最終審と位置づけられるようになった。また初めはパリだけであったが、15世紀半ば以降、トゥールーズ、グルノーブル、ボルドー、ディジョン、ルーアンなどにも設けられた。パリ高等法院はそのうち最も広い管区を受け持ち、審理数も多く権威も高かった。
 中世封建社会では、封建領主(貴族)が裁判権を持ち、所領(荘園)内の問題を領主が裁いていたが、この高等法院が設置されることによって領主裁判権は次第にその効力を失っていった。代わって高等法院の法官(裁判官)となったのは下級貴族か市民出身で法律の知識(主としてローマ法)を学んだ法曹家(レジスト)であった。彼らは単なる法律家としてだけではなく、国王の政治を支える官僚として活躍するようになる。高等法院の法官は法服貴族と言われて新興の貴族層を構成するようになった。

貴族の拠点となりフロンドの乱起きる

 ブルボン朝のルイ14世の即位直後の1648年、王権の強化を進める宰相マザランに反発した貴族層がフロンドの乱をおこしたが、それはマザランが財政難から高等法院の法官の俸給の据え置きを策したことに対する高等法院の反発から始まった。しかし、旧来の貴族が既得権を守ろとしたのにたいして、もともと下級貴族や市民出身の官僚である高等法院の一般法官は次第に貴族の反乱から距離を置くようになり、1653年に反乱は鎮圧される。

王権との対立

 その後は高等法院は絶対王政を支える司法機関として整備され、全国で13ヶ所も受けられたが、ルイ15世・ルイ16世の時代に王権が財政難から貴族への課税を行うことを検討しはじめると、高等法院は貴族層の拠点として再び王権に抵抗するようになった。1788年には高等法院と国王が衝突し、グルノーブルでは民衆が高等法院を支持して軍隊に屋根瓦を投げつける「屋根瓦の日」事件が起き、フランス革命の予震となった。翌年、三部会が開催されると、高等法院は身分ごとの評決を主張、第三身分との対立が明らかとなる。
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