印刷 | 通常画面に戻る |

フロンドの乱

17世紀中ごろ、ルイ14世と宰相マザランの中央集権化に反発した貴族の反乱。鎮圧したルイ14世の絶対王政が全盛期を迎えた。

 1648年~53年、フランスのルイ14世と宰相マザランの政治に対し、その中央集権の強化策や重税策に反発した貴族層が起こした内乱。フロンドというのは、子供の投石おもちゃのことで、この戦争を子供がこのおもちゃを使って遊ぶことにたとえて「フロンドの乱」というようになった。反乱の主体となったのは貴族層であったが、同時にパリの民衆反乱や地方の農民一揆も起こっており、広範囲な反王政の戦いであった。しかし結果的には反乱側の足並みがそろわず、マザランの巧みな対応が功を奏して鎮圧され、王権のさらなる強化と中央集権化が進み、ルイ14世時代のフランス絶対王政の全盛期をもたらした。1648年は三十年戦争が終結した年であるが、イギリスではピューリタン革命が進行しており、ヨーロッパの17世紀の危機といわれる変革期の出来事の一つであった。 → フランス ブルボン朝
 6年間にわたったフロンドの乱は一般に、前半の「高等法院のフロンド」と後半の「貴族のフロンド」に分けられる。さらに全時期を通じて「民衆のフロンド」といわれる市民や農民の反乱参加があった。

高等法院のフロンド 1648~49年

 ルイ14世は1643年にわずか5歳で即位、政治の実権は摂政となった母后アンヌ=ドートリッシュと宰相マザランが握った。マザランは1648年10月の三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約でアルザスを獲得するなどの成功を収めた。しかし、前代のリシュリューに続き、国王の寵臣(しかもマザランはフランス人ではなくイタリア人であった)が強い権力を持つことに対して、貴族たちの反発も強まっていった。貴族たちは既得権の一つであった高等法院の法官が貴族以外の市民から採用(しかも売官によって)されていることにも反発していた。また都市の市民層や農民には、うち続く戦争の戦費を捻出するための重税に対する不満が強まっていた。マザランが三十年戦争による財政危機の克服のため、高等法院法官の俸給の4年間据え置きを発表すると、法官たちの反対運動がおこった。政府が法官を逮捕に踏み切ると、重税政策に反発していたパリ市民が1648年8月26日に蜂起し、市内各所にバリケードを築いた(バリケードの日)。こうして「高等法院のフロンド」が始まった。この反乱はマザランが、三十年戦争で軍功のあった大貴族コンデ公を抱き込み、コンデ公の軍隊がパリを包囲、高等法院も妥協して、翌年に鎮圧された。

貴族のフロンド 1650~52年

 1650年、今度は大貴族コンデ公が恩賞の少なさに不満を持って王室に反旗を翻し、多くの貴族も同調した。パリはコンデ公の指揮する反乱軍に占拠され、封建領主である貴族の基盤である地方で農民の反乱を扇動し反乱は全国に広がった。ルイ14世、摂政アンヌはパリを捨て、宰相マザランはドイツに亡命した。こうして「貴族のフロンド」はマザランを排除することに成功したが、貴族側も統一歩調がとれずに分裂していた。国王側はコンデ公と対抗できる三十年戦争の時の将軍テュレンヌを抱き込み、1652年夏にはパリ郊外で両軍の決戦が行われ、フロンド派が勝利した。しかし、コンデ公がスペインに援軍を頼んだことはパリの民衆の反発を受けて、高等法院の法官(法服貴族)も大貴族(軍服貴族)の復活を警戒して反乱は尻すぼみになり、52年9月、コンデ公はパリを放棄してして亡命、「貴族のフロンド」は終わった。

Episode フロンド派の女傑グランドマドモワゼル

 1652年夏、フロンド派と国王派の決戦となったパリのサン=タントワーヌ門の戦いでは、フロンド派の女傑、25歳のモンパンシエ嬢(ルイ14世のいとこでグランドマドモワゼルといわれた)がバスティーユの砲門を開いてコンデ軍のパリ入城を助けた。フロンドは軍の先頭に立つこの女性の勇姿はひときわ人びとの目を引いた。反乱失敗後はルイ14世のいとこだったので宮廷に残ったが、人一倍勝ち気な性格で、各国宮廷との縁談があったがことごとく断り独身をつづけた。そんな彼女は、45歳(正しくは43歳)の時、いきなりある下級廷臣と結婚すると言い出した。この風采のあがらない男との突然の結婚話は宮廷を驚かした。このピュイギレムという男も出世のチャンスとばかり、その結婚をルイ14世に認めてもらうよう策略を巡らした。果たしてルイ14世はどう裁定したか・・・このグランマドモワゼルの結婚話は、『箴言集』で有名なラ=ロシュフコーの『考察』の中に書かれている。なお、ラ=ロシュフコー自身がフロンド派の貴族として反乱に参加し、失明しかねないほどの大けがをした。その『箴言集』は「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」などの皮肉をたっぷり効かし、人の心を刺す言葉に満ちている、フランス17世紀文学の傑作である。<ラ=ロシュフコー/二宮フサ『箴言集』岩波文庫 p.11,p.256>

民衆のフロンド

 1652年、国王ルイ14世、宰相マザランはパリに帰還したが、フランス南部のボルドーでは反乱が続いていた。この地方はすでに1648年のフロンドの乱勃発の時から、塩税などの重税に反対する農民一揆が続いていた。1650年には「楡の木同盟」という手工業者と農民の同盟が結成され、イギリスのピューリタン革命での水平派の影響を受け、全市民参加の選挙による国民議会の開催、貴族と農民の法の下での平等、特権の廃止、商業の自由、租税負担の公平などを掲げて、なおも抵抗を続けていた。ボルドーは国王軍に包囲・攻撃され、1653年7月、「楡の木同盟」も解体させられた。当時のフランスはまだ市民革命がおこる条件は整っていなかったので鎮圧されてしまったが、この「楡の木同盟」は約130年後のフランス革命の先駆的な動きとして注目される。

フロンドの乱の背景と意義

 フロンドの乱の原因は、王権が中央集権化・官僚化を進めて強化されていくことに対する、既得権の喪失を恐れる貴族層の反乱であったが、それが全国的な内乱にまでなった背景には、都市の市民や農村の農民の重税に対する反発があった。そして当時のヨーロッパは「17世紀の危機」といわれる天候不順、凶作、不況と言った社会の疲弊があった。大きく言えば、中世封建社会から、近代市民社会への移行という大きな変化が始まった時期であった。
 そして反乱が鎮圧された結果、貴族の没落は進み、その反面としてフランス絶対王政を確立していく契機となった。同時期にイギリスではピューリタン革命が起こり、一時共和政を実現させる革命となったのに対して、フランスのフロンドの乱は市民や農民の蜂起も一部見られたが、中心は貴族の反乱であり、革命運動に結びつくことはなかった。