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三部会

1302年、フランスのフィリップ4世が召集した身分制議会。ルイ13世の1614年開催を最後に、フランス革命の起きた1789年まで開催されなかった。

 1302年フランス王国・カペー朝のフィリップ4世はローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際、聖職者・貴族・都市の商人代表を召集し、新税の課税を承認させたのが三部会の始まりである。聖職者である第一身分、貴族である第二身分が特権階級であり、第三身分は都市の商人、農民など特権を持たない人びとで構成された。イギリスの模範議会と並んで、身分制議会の典型的な例である。はじめは国王の新税課税を承認するための諮問機関として、国王の意志のもとで召集されるに過ぎなかったが、百年戦争期にはその権威も高まり、貴族と聖職者の第一・第二身分にとっては王権の課税権を制約する機関として意味を持つようになった。しかし、百年戦争を経て、貴族は長期的没落傾向に入り、ヴァロワ朝のもとで王権が強化されると国王は三部会を敬遠するようになった。次のブルボン朝では、アンリ4世は中央集権的な統治機構を造り、徴税システムを整備するなど、三部会への依存の度合いを少なくしていった。

ルイ13世の三部会開催

 ルイ13世が1610年にわずか9歳で即位すると、貴族たちは摂政マリー=ド=メディシスに圧力をかけて、1614年に三部会を召集させた。貴族たちは第3身分に対して売官制による官職就任を非難し、官職者が多い第三身分は貴族の年金が高すぎると言って非難した。こうして三部会は身分間の対立が激しいことが明らかになったことと、ヴァンデ地方リュソンの司教だったリシュリューが頭角を現しただけで得るところ無く翌年閉会になった。その後、ルイ14世、15世のブルボン朝の王たちは三部会を召集することなく強大な王権を行使しつづけた。

ルイ16世の三部会開催

 再び三部会が召集されるのは、国家財政の行き詰まりが深刻となった1789年5月のことである。ルイ16世が貴族たちの要請を受け入れて召集したこの三部会でブルボン朝のアンシャン=レジーム(旧体制)の矛盾が表面化した。それは三部会の決議の仕方をめぐって、身分ごとに各1票とするか、議員ごとに1票とするかで、第1身分・第二身分と第三身分がするどく対立することとなり、第三身分が独自に国民議会を発足させたことで三部会は崩壊し、フランス革命の勃発のきっかけとなった。

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三部会開催(1789年)

フランスのルイ16世が新税課税のため1789年に三部会を召集した。議決方式をめぐり、第一・第二身分と第三身分の対立が鮮明となり、フランス革命勃発の引き金となった。

 フランス三部会は、フィリップ4世がローマ教皇と対立したとき、国内の貴族たちから新税を徴収することを認めさせるために召集した身分制議会。絶対王政が確立したルイ13世の時の1614年を最後に開催されなくなった。ルイ16世は財政難の解消のため、貴族にも課税しようとしたが、反発した貴族が三部会開催を要求、その声に押されて170数年ぶりの1789年に三部会を召集した。これがフランス革命の勃発につながることとなった。

三部会議員の選出方法

 1789年1月24日に公表された、全国三部会の選挙規定はおよそ次のようなものであった。
・第一身分と第二身分 裁判区単位の選挙人集会で直接指名される。
・第三身分 選挙人の資格は25歳以上で課税台帳に登録されていることが必要だった。選挙方法は選挙人が都市では三段階の、農村では二段階の集会を開催して、代議士を選んだ。都市の三段階とは、同業組合集会または地区集会 → 都市単位の集会 → 裁判区単位の集会であり、農村の二段階とは小教区 → 裁判区単位の集会である。
 つまり、三部会代議員は一応選挙で選ばれ、特権身分は直接選挙、第三身分代表は納税者が選挙人となって段階的に選出する間接選挙、と言う選挙法であった。なお、選挙に伴い、それぞれの集会は要求を「陳情書」にまとめて提出することになっていた。陳情書のモデルとして知識人が多くのパンフレットを発行、その一つがシェイエスの『第三身分と何か』であった。これらのパンフレットに刺激された選挙人集会は、3月から4月にかけて開かれて選挙運動が展開され、全土は大きな興奮がもたらされた。J.コデショ/瓜生洋一ほか訳『フランス革命年代記』1989 日本評論社 p.36 などによる>

三部会招集と議決方式

 1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で三部会の開催式が行われた。議席は聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)が各300名、第三身分が600名、合計1200名とされていた(実際には定員をオーバーして選出された)。国王側は当初、1614年と同じく、三身分同数としたかったが、人口比から言って非合理だという批判が強く、妥協して第三身分定員が倍増された。しかしそれでも当時の人口比率から見れば著しく不均衡であった。
 国王の、あまり乗り気でない挨拶のあと、ネッケルが召集の理由の国庫の赤字について説明した。しかし代議員の関心は、三部会の議決方法-身分ごとの投票か、頭数による投票か-であった。第三身分代表は翌日、イギリスに倣って庶民院とよぶことにし、個別身分の議院を構成する事を拒否。貴族もまた独自の議院を構成することを宣言、聖職者は意見がまとまらなかった。こうして三部会は召集されたが議決できない状態に陥った。

身分別議決法

 ルイ16世が召集した1789年の三部会は、採決の方法で身分間に対立が生じ、審議に入れなかった。第一身分の聖職者と、第二身分の貴族は、身分ごとの投票(身分別議決法)を主張したのに対し、それでは2対1で不利になることの明らかなため、第三身分の議員は、議員一人一票を主張した(議員数では第一身分と第二身分の合計が561名、第三身分が578名であった)。約40日にわたって議決方法について議論したがまとまらず、ついに第三身分は独自に国民の代議機関をつくるべきであると主張して国民議会を発足させた。
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