ネースビーの戦い
1645年、ピューリタン革命で、クロムウェル率いる新型軍が王党派を破り、議会派の勝利が確定した戦い。
ピューリタン革命は、1642年に議会派と王党派の軍事衝突としてはじまり、はじめは王党派が優勢であったが、1644年にマーストンムーアの戦いで鉄騎隊を率いて議会軍を勝利に導いた独立派のクロムウェルは、議会派の主導権を握り、さらに新型軍(ニューモデル軍)を編成した。貴族や平民という階級にとらわれずに「靴屋や馬車引きが貴族と並んで部隊長となった」新型軍は、騎兵と歩兵から部隊を編成し、機動性に富む軍隊であった。
その後1年間、各地で国王軍の残存部隊の掃討が行われ、翌46年春までには国王軍の拠点の南西部ウェールズ地方も議会軍の手に落ちた。チャールズ1世は議会の和平派と交渉したが既に和平派には力がなく、4月には変装してオックスフォードの国王軍陣地を脱走しスコットランドに身を投じた。スコットランドとイングランドの協議が続けられ、47年2月、国王はようやく議会軍に降った。それでも国王は「意気揚々」であった。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.147 などによる>
クロムウェルの新型軍が国王軍を破る
1645年6月、イングランド中部のネースビーで衝突した両軍の兵力は、国王軍の7500に対し、議会軍は14000であったが、国王軍を率いていたルパートはクロムウェルの編成した平民主体の新型軍を軽蔑し、即決を期して攻撃した。しかし、戦死1000、捕虜5000という敗北を喫したため、国王軍は壊滅した。その後1年間、各地で国王軍の残存部隊の掃討が行われ、翌46年春までには国王軍の拠点の南西部ウェールズ地方も議会軍の手に落ちた。チャールズ1世は議会の和平派と交渉したが既に和平派には力がなく、4月には変装してオックスフォードの国王軍陣地を脱走しスコットランドに身を投じた。スコットランドとイングランドの協議が続けられ、47年2月、国王はようやく議会軍に降った。それでも国王は「意気揚々」であった。<浜林正夫『イギリス市民革命史』P.147 などによる>