チャールズ1世
イギリス・ステュアート朝の国王。王権神授説に基づく専制政治を行い、議会と対立してピューリタン革命が起こり、1649年に処刑された。
チャールズ1世 1600-1649
ファン=ダイク画
権利の請願を無視
1618年に始まっていたドイツにおける三十年戦争は、次第に国際的な紛争の観を呈してきていた。フランスは1625年に新教徒支援に転じていた。チャールズ1世は王妃をフランスのブルボン家から迎えていた(アンリエット=マリー)。チャールズ1世は旧教国スペインとの戦費を得るため、新たな課税を行おうとしたが、議会はそれに反対して1628年、権利の請願をチャールズ1世に提出した。それは、マグナ=カルタ以来のコモン=ローにもとづき、国王と言えども議会の同意なしに課税できない、理由を示さず逮捕できない、などの諸権利を認めることを迫る内容であった。チャールズ1世は怒って議会を解散し、請願の中心人物であったエリオットら9人の議員をロンドン塔に投獄した。エリオットは三年後に獄死している。チャールズ1世はその後、議会を開催せず、11年にわたって無議会の絶対王政を行うこととなった。チャールズ1世の絶対王政
チャールズ1世は、議会を開催せず、政治を側近のカンタベリ大主教ロードとストラフォード伯の二人に任せた。この間をロード=ストラフォード体制ともいう。大主教ロードは国教会の立場を強化しようとしてピューリタンを弾圧し、議会の承認を必要としない財源としてトン税・ポンド税などの関税の増税、特権商人への独占権の乱発、それまで港だけに課せられていた船舶税の全国への拡大などを画策した。反対派に対しては星室庁裁判所による裁判で取り締まった。1637年にジョン=ハムデンというジェントリが船舶税は違法であると裁判に訴えたことから、反対の声が強まった。ジェントリは治安判事として無給で絶対王政を支え、議員に選出されていた。かつてテューダー朝時代の彼らは、議会を通じて王政に従順であったが、今や議会は国王の絶対王政を敢然と批判する姿勢に転じていた。
議会の開催
1639年、スコットランドの長老派(プレスビテリアン)が起こしたスコットランドの反乱を鎮圧するための課税の必要に迫られると、1640年に総選挙を行って議員を選び、議会を11年ぶりに召集したが、再びジョン=ピム議員らが激しく課税を批判したため、わずか三週間で解散した。これが短期議会である。しかし、スコットランド軍が侵入してきたため、再度議会を招集せざるを得ず、この長期議会がピューリタン革命の舞台となっていく。議会は再びジョン=ピムらが発言し、王の側近ストラフォード伯と大主教ロードの逮捕・処刑を決議、さらに三年に一度は議会を開催すること、議会自身の決議がなければ解散できないことを定め、船舶税などの廃止、星室庁裁判所の廃止など、絶対王政を完全に否定する改革をめざした。しかし、この頃から改革を行き過ぎであると考える穏健派も生まれ、1641年にピムやクロムウェルが提出し、国王の執政を告発する大抗議書は、159票対148票というわずか11票でようやく議会を通過した。
チャールズ1世は議会派を叩く好機と考え、ピムら5人の議員をスコットランド軍の侵入をたすけ、騒乱を招いたかどで逮捕するため、400名の兵士を引き連れ、自ら議会に乗り込んだ。しかし、ピムらは既に逃れ、議長も議員の身柄引き渡しを拒否したため、空振りに終わった。チャールズ1世は王妃と共にロンドンを離れ、ヨークに向かい、国王と議会の武力衝突は避けられない情勢となった。
ピューリタン革命起こる
王党派と議会派の対立は1642年10月、ついに武力衝突に発展、ピューリタン革命が始まった。当初は王党派が優勢であったが、クロムウェルの指揮する議会軍が鉄騎隊を組織して闘い、形勢は逆転し、1645年にはネースビーの戦いで国王軍は敗北した。チャールズ1世は1647年1月に捕らえられた。第2次内乱
クロムウェルは独立派を率いて革命の主導権を握ったが、革命勢力の中には国王に妥協的な長老派と、さらに革命を社会改革にまで進めようという水平派があり、内部対立が激しかった。再起をうかがっていたチャールズ1世はハンプトンコートの監禁室から巧みに姿を消し、イギリス海峡のワイト島に逃れ、そこでスコットランドと軍事上の密約を交わし、王党派の決起とスコットランド軍の南下を促し、1648年に第二次内乱となった。しかし、革命の危機に議会派が結束し、クロムウェルと水平派の指導者リルバーンも和解したため内乱は鎮められ、チャールズ1世も再び捕らえられた。チャールズ1世の処刑
その後もチャールズ1世は独立派と長老派、水平派の対立を煽る策謀を続けた。もともと立憲君主主義者であったクロムウェルも、チャールズ1世に対する断固たる措置が必要と考えるようになり、まず1648年12月、議会から王権に妥協的な長老派を追放し、独立派支配を確立、1649年1月、国王を裁くための特別な高等裁判所を設置した。裁判の結果、「チャールズ=ステュアートは暴君、反逆者、殺人者、この国の善良な人々に対する公敵として斬首により死刑に処す」と言う判決が下された。1月30日、チャールズ1世はホワイトホールの外側に設けられた処刑台に上った。チャールズ1世の処刑によって、イギリスは共和政国家(コモンウェルス)となった。なお、血液循環の発見で知られる医師ウィリアム=ハーヴェーは、チャールズ1世の侍医であった。また、フランドル生まれのオランダ人画家ヴァン=ダイクはイギリスに渡って宮廷画家として仕え、チャールズ1世の優れた肖像画を残している(上掲)。
チャールズ1世には男子が2名いた。兄は王政復古によって即位しチャールズ2世となり、弟はその次のジェームズ2世となった。また女子のメアリはオランダのウィレム2世と結婚し、ウィレム3世を生む。ウィレム3世がジェームズ2世の娘メアリと結婚し、名誉革命で迎えられウィリアム3世とメアリ2世となる。