コシューシコ
ポーランドの軍人で、アメリカ独立戦争、フランス革命に参加し、祖国ポーランドの分割に対して抵抗して1794年に蜂起した。
Kościuszko
1746-1817
1793年の第2回ポーランド分割を目論むロシア軍が侵攻すると、それと戦った。降服に反対して除隊し、フランス革命の渦中にあったパリに渡ってジロンド派やジャコバン派にポーランドの窮状を訴え、その支援を約束させた。
帰国したコシューシコは1794年に農民を組織して立ち上がった。これをコシューシコ蜂起という。ロシア軍との緒戦に勝利したコシューシコは農民の自由を宣言、さらに勝利を重ねたが、フランスの支援が得られず、国内でもシュラフタ層が農奴解放への不満から協力しないようになり、10月の戦闘ではみずからも負傷して捕虜となってしまい、11月にはワルシャワがロシア軍に占領され、蜂起は鎮圧された。翌1795年に三国による第3回分割が行われ、ポーランドは完全に消滅する。コシューシコは1796年に釈放されてからパリに移住、ポーランドの再興をめざしながら果たすことができず没した(1817年)。
コシューシコ蜂起
・草刈り鎌の勝利 1794年3月24日、コシューシコ(コシチューシュコ)は決起した。ポーランド軍部隊と群衆の歓喜のなかでクラクフの中心広場で蜂起宣言が発せられた。彼は、「われわれはシュラフタのためだけに戦うのではない。全民族の自由のために戦うのだ」と言明した。コシューシコは4100人の正規軍部隊と近郊の村から召集され、草刈り用の大鎌で武装した農民2000を率いてワルシャワに向かった。4月4日、ラツワヴィーツェでロシア軍と遭遇、草刈り鎌を振るう農民が敵の大砲を奪取し、さらに歩兵の一部を打ち破った。この草刈り鎌の勝利は伝説化された。・農奴解放を宣言 民族の独立の戦いを進める上で、農民を封建的負担から解放することは不可欠だった。5月7日、コシューシコはポワーニェツの陣営内で農奴制の廃止を布告し、農民に人格上の自由を与えることを宣言した。しかし、ロシアとの戦争を秩序ある戦いにするためにはシュラフタの協力も必要であると考えていたコシューシコは、賦役の全廃や土地所有権の付与には触れなかった。それは農民のなかに蜂起に対する熱意を失わせる結果となり、農奴解放そのものに反対のシュラフタも蜂起から身を退くようになった。
・蜂起の結末 それでも蜂起は8ヶ月続き、第2回分割前のポーランドをほぼ回復し、ワルシャワに臨時政府をたて、プロイセン領にも拡がった。しかし、コシューシコの期待したフランス軍の支援はついに実現しなかった。6月にプロイセン軍にクラクフを、8月にはロシア軍にヴィルノを奪われ、10月のマチェヨヴィーツェの戦闘で彼自身が負傷して捕虜となってしまった。それでも戦いは続いたが、11月にロシア軍の猛攻によってワルシャワが降服し蜂起は鎮圧された。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.69>