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ポーランド

ドイツとロシアにはさまれた位置にある東欧の重要なキーとなる国家。大国であった時期から分割によって消滅した時期、を繰り返し、また度重なる戦争、特に第二次世界大戦によって国土の領域が大きく変化した。

ポーランド地図

ポーランド地図(現在) Yahoo Map(旧)による

<概略>
 東ヨーロッパのスラヴ系国家の一つ。バルト海に面し、一時はリトアニアと一体化して広大なリトアニア=ポーランド王国を形成した。西部のドイツと東部のロシアにはさまれて、常に領土的な脅威を受け、国家としては消滅したこともあるので、弱小国と思われがちであるが、ポーランド人の国家は10世紀の王国建設以来、モンゴルの侵入を撃退し、14世紀にはリトアニアと連合してヤゲウォ朝のもとで大国となるなど、重要な存在であった。その領土は現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ一帯に及んだ時期もあり、政治的には特徴的な選挙王制がとられ、シュラフタという土地貴族を主体とした議会政治が行われていた。
 しかし、安定した国家権力が構成されず、17世紀以降はプロイセンとロシア、オーストリアの干渉を受けるようになり、18世紀末までにこの三国によるポーランド分割によって国家は消滅してしまった。その後、ナポレオンによって一部がワルシャワ大公国として復活、ウィーン体制下ではポーランド立憲王国としてポーランド国家の形がとられたが、実態はロシアの支配が続いた。
 実質的な独立を回復したのは第一次世界大戦後である。大戦間のポーランドはロシア革命に乗じて領土を拡張する動きを見せ、ソ連と厳しく対立した。第二次世界大戦が始まると東西からドイツとソ連に侵攻され、再びポーランドは分割支配され消滅した。大戦中もナチスドイツに対する抵抗を続けたが、解放を実現したソ連軍の影響力が強まり、その支援で共産政権が成立し、戦後は社会主義国家となった。
 戦後のポーランドはワルシャワ条約機構の加盟国としてソ連の衛星国家となったが、社会主義経済体制が行き詰まった20世紀末に自主労組「連帯」の自由を求めるストライキが、東欧革命の端緒となり、一気に東欧社会主義陣営は崩壊し、ポーランド共和国も自由化、資本主義化を遂げ、2004年にはヨーロッパ共同体に加盟した。

(1)ポーランド人/ポーランド王国

スラヴ系ポーランド人は、10世紀ポーランド王国(ピアスト朝)を建設し、カトリックを受容した。11世紀以降、神聖ローマ帝国から政治的・宗教的に独立した地位を確保するが、一方ドイツ人の領内への東方植民も多くなった。1241年にはモンゴルのバトゥの軍が来襲、ワールシュタットの戦いで大敗したが、14世紀に勢力を盛り返しカジミェシュ3世(大王)のころ、全盛期となった。

 ポーランド人はスラヴ人の中の西スラヴ人に属する。少なくとも9世紀までにポラニェ族を中心にポーランド国家を建設。ポラニェは、平原を意味するポーレからきた。ポーランド(英語表現。ポーランド語ではポールスカ)もポーレに由来する。10世紀に西はオーデル(ポーランド語でオドラ)川と東はヴィスワ川の間の平原にポーランド王国を建設し、カトリックを受容したスラヴ系国家という独自の道を歩み始める。

ポーランド王国ピアスト朝

 10世紀頃、ポーランド人が建国した最初の王朝は、その先祖の名前からピアスト朝(ピャスト朝とも)と言われている。オーデル川中、上流のシュレージェン地方もこのころポーランド領となった。11世紀以降、神聖ローマ帝国から政治的・宗教的に独立した地位を確保するが、一方ドイツ人のポーランド領内への東方植民も多くなった。

モンゴル軍の侵入

 1241年にはモンゴルのバトゥの遠征軍がハンガリーに侵入してきた。その一部は北に向かったので、ポーランド王国はドイツ諸侯に救援を要請、ドイツ=ポーランド連合軍としてワールシュタットの戦いで迎え撃ったが敗れた。この地は、現在のポーランドのレグニツァににあたる。ポーランドは恐慌に陥ったが、モンゴルのバトゥ軍は間もなく東方に引き揚げ、その支配を受けることはなかった。

ポーランド王国の全盛期 14世紀

 14世紀にピアスト朝カジミェシュ3世(カシミール大王)の時、ベーメン王国(チェコ)とドイツ騎士団の干渉をはねのけて、官僚制、法律、地方制度の整備に努めて中央集権化をはかり、農民を保護して国力を充実させた。1364年には首都クラクフに大学を創設した。カジミェシュ3世はポーランド史上で唯一、「大王」と言われる。

(2)リトアニア=ポーランド王国

1386年にはピアスト朝の王位継承者の断絶とともに、北方のリトアニアと連合王国となった。それはドイツ騎士団の東方進出という脅威への対応であった。このリトアニア=ポーランド王国は、14~16世紀にヤゲウォ朝のもとで1410年にはドイツ騎士団を破るなど、東欧での大国となった。両国は1569年のルブリン合同で正式に合体した。16世紀後半からはシュラフタ(貴族)による選挙王制を採る。

同君連合の成立

 ポーランド王国は14世紀が最盛期であったが、1386年カジミェシュ3世(大王)の死によって断絶したため、ピアスト朝の女王ヤドヴィカの夫として北方のリトアニア大公のヤゲウォをむかえ、その両者を対等の王とすると連合王国としてリトアニア=ポーランド王国を形成する。それはドイツ騎士団の東方進出が両国に共通の脅威だったからである。

ヤゲウォ朝の繁栄 15~16世紀

 このリトアニア=ポーランド王国のヤゲウォ朝は、1410年にはタンネンベルクの戦いドイツ騎士団を破り、さらに十三年戦争といわれる1454~66年の戦いで勝利して、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を回復した。それによって穀物や材木の輸出が急速に延び、経済は飛躍的に発達して、14~16世紀に東ヨーロッパの強国として繁栄する。リトアニア=ポーランド王国と戦って敗れたドイツ騎士団は1525年にポーランド王国を宗主国とするプロイセン公国となった。
 このころプロイセン公国領となったエルムランドで活躍していたポーランド人の医師兼天文学者が、クラクフ大学で学んだコペルニクスであった。

ルブリンの合同

 こうしてヤゲウォ朝のもとで東欧での大国となった両国は1569年に「ルブリンの合同」で正式に合同し、同一の国王、同一の身分制議会(セイム)をもつことになった。また現在のウクライナも含む広大な国土を有することとなった。しかし、両国の合体は、実質的にはポーランドがリトアニアを併合したものであったので、以後は単にポーランド王国と称することが多い。この間、ドイツ騎士団との戦争で中核として戦った貴族層であるシュラフタの発言権が強まり、国王は実際にはシュラフタの議会で選出されるようになった。

(3)選挙王制とポーランド分割

ヤゲウォ朝の断絶後、シュラフタと言われる貴族層が実権を握り、1572年から貴族によって国王が選出されるという選挙王制となった。17~18世紀、ウクライナのコサックやスウェーデンからの侵入を受け、弱体化する。18世紀末までに絶対王政のもと軍事力を強めた周辺のロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって分割され国家が消滅した。

選挙王制 17世紀

 1572年にヤゲウォ朝が断絶すると、選挙王制がしかれることとなった。国王を選出するのはシュラフタと言われる大小の貴族層であり、また国王にはポーランド人以外の外国の王家の有力者が選出された。それはシュラフタが国王をコントロールする体制でありシュラフタ民主政とも言われる。しかし、選挙王制はシュラフタ同士の対立と外国の介入の原因となり、ポーランドの弱体化が始まっていった。1611年には首都はクラクフからワルシャワに移され、現代まで続いている。

ウクライナの反乱

 1648年、ポーランド王国に属するウクライナコサック(カザーク)が反乱を起こした。頭目(アタマン)のボグダン=フメリニツキーに率いられたコサックはかつて、モンゴルの侵入などと戦った草原の騎馬軍団の子孫であったが、ロシア人と同じくギリシア正教会の信仰を持っていたので、カトリックの多いポーランド貴族の支配には反感を持っていた。そこでコザックはウクライナの自治を求めて反乱を起こし、ロマノフ朝のロシアに支援を仰いだ。
“大洪水” 1654年、ロシアが援軍を送ると、翌年、対抗するように新教国スウェーデンも北方から侵入、ポーランドは「大洪水」といわれる、スウェーデン軍とロシア軍の侵略を受けて、滅亡の危機に立たされた。1660年に講和となったが、ポーランドの国土の荒廃が進み、中小のシュラフタも没落、少数の貴族の支配する状態となった。この「大洪水」がポーランド衰退のきっかけとなった。1660年にはそれまで宗主権を持っていたプロイセン公国の独立を認めた。
ユダヤ人への大迫害   フメリニツキーの指導したコサックの反乱軍の蜂起に伴い、ポーランドで大規模なユダヤ人に迫害が起こった。ユダヤ人はポーランド王国で一定の保護のもと自治を与えられ、経済や手工業、文化の面で重要な働きをしていたことに対して、反ポーランドの感情からユダヤ人に対する襲撃が始まったのだった。それは1654年にコサックを支援する為に介入したロシア軍によっても行われ、ポーランド、白ロシア、ウクライナの各都市を占領した際にユダヤ人は殺害されるか放逐されるかであった。その後もユダヤ人に対する襲撃はやまず、これによってポーランドのユダヤ人は完全に壊滅したと言われる。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.219-220>

ポーランドの弱体化 18世紀

 1683年には、オスマン帝国のウィーン包囲(第2次)の際、ポーランド王ヤン3世ソビエツキ(久しぶりにポーランド人で王に選出された)は3万の軍勢を率いてウィーンを救出し、キリスト教世界の賞賛を受け、王の死後のカルロヴィッツ条約ではオスマン帝国から右岸ウクライナを奪回した。しかし、ヤン3世はポーランド王国の繁栄の最後の国王となった。
 ついで、北方戦争を機に1701年にロシアとスウェーデンの侵入を受けるようになり、ポーランドの弱体化はさらに進んだ。
 1733年~35年にはポーランド王の選挙を巡って、ポーランド継承戦争が起こった。ポーランド国王アウグスト2世の死去に乗じて、フランス王ルイ15世が義父のスタニスラス=レクザンスキを王位に選出させたことにオーストリアとロシアが反発して前王の子を国王としたためにポーランド王が同時に二人出現、フランスがオーストリアに宣戦布告して始まった。ロシアがポーランドに進撃し、スタニスラスが追い出されたためフランスの目論見はくずれた。このように18世紀前半までにポーランドの王位は非常に不安定で外国の干渉を招くことになり、次のポーランド分割に至ることになる。

Episode “街道沿いの旅籠”と化したポーランド

18世紀前半のポーランドについては次のような説明がされている。
(引用)・・・国家としての機能をまったく失っていた。中立とは名ばかりで、かつての“キリスト教の防壁”は、ロシア、プロイセン軍が自由に往来する“街道沿いの旅籠”と化していた。議会の機能停止によって監視を受けなくなった宮廷や大臣は、その権限を私腹を肥やすためだけに使った。大貴族の城館はそれぞれの地方権力の中枢となり、中央権力から独立して、またしばしば法を無視して、活動していた。“我々の自由は無秩序であり、またそうあらねばならない”という無謀な見解が、圧倒的多数のジュラフタ(貴族)の間に市民権を得ていた。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.40>
 つまり、18世紀ポーランドは、主権国家の形成が出来なかったと言うことであり、それを阻害したのがシュラフタの存在であった、ということであろう。

ポーランドを巡る国際情勢

 18世紀前半のスペイン継承戦争・北方戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争と続いた主権国家間の戦争によって、18世紀中ごろのヨーロッパの国際情勢は、ロシア・オーストリア・プロイセン・フランス・イギリスという「五大国体制」を確立させた。この五大国は、領土を拡張しながら均衡をはかるという国際秩序をつくりあげたが、18世紀後半のイギリスからのアメリカ独立戦争、フランス革命によって、イギリス・フランスがやや後退した。その間に、ロシア・オーストリア・プロイセンの三大国が強行したのがポーランド分割であった。

ポーランド分割

 ロシアプロイセンオーストリアの三国によるポーランド分割は、18世紀末に3回にわたって行われた。まず、1772年、ロシアのエカチェリーナ2世、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(実権はマリア=テレジア)の三者によって第1回分割が行われ、三国はそれぞれ隣接する地域を自国領に編入することをポーランドに認めさせた。第1回分割はポーランド国内に深刻な危機感を呼び起こし、国王による改革が行われ、憲法も制定された。しかし、ロシアのエカチェリーナ2世は、フランス革命が進行して西欧諸国が忙殺されている間に残りのポーランドの領有を狙い、プロイセンのフリードリヒ=ウィルヘルム2世とともに、1793年第2回分割を承認させた。翌1794年、ポーランドのコシューシコは分割に抵抗して蜂起し、ロシア軍と戦ったが敗れ、1795年第3回分割が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって行われて、ポーランドは国家としては地図上から消滅する。

(4)ポーランドの苦難

ナポレオンがプロイセンとの戦争に勝利し、プロイセン領ポーランドの地にワルシャワ大公国を建てた。しかしこの国は真のポーランド国家の復活とは言えなかった。ナポレオン没落後、ポーランド立憲王国がそれを継承したが、この国はロシア皇帝を国王としたので、実質的にはロシア支配が続いた。ウィーン体制時代にはポーランドの民族運動が次第に活発となって、しばしばロシア・プロイセン・オーストリアに対する反乱を起こしたが、いずれも失敗し、その支配が続いた。

 分割され三国の支配下に入ったポーランドではその後も独立をめざす運動が続いた。フランス革命の理念を継承したナポレオンがプロイセン・オーストリア・ロシアの君主国に対する戦争を開始すると、ポーランドの人々は、ナポレオンを解放者として期待し、その征服戦争に協力した。

参考 ポーランド国歌

 ナポレオン軍の捕虜となったオーストリア軍のなかにはポーランド出身者が多数含まれていた。そのポーランド兵は、パリに亡命しナポレオンに協力していたドンブロフスキー将軍のもとに結集し、1797年にナポレオンが北イタリアに樹立したロンバルディア共和国の守備隊としてポーランド軍団を発足させた。その軍団歌は「ポーランドいまだ滅びず、我ら生きるかぎりは」で始まり、「すすめ、すすめドンブロフスキイ、イタリアの地よりポーランドへ。なんじの指揮のもと、我ら、国の民と結ばれん」で終わる。民族の自由と独立とを追求し続けるポーランドの象徴として、この歌は今日のポーランド国歌として歌い継がれている。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.76>

Episode ポーランド軍団の悲劇

 このポーランド軍団は1799年、フランス軍に編入されたあともナポレオンに忠実に、イタリア戦役やドイツ戦役に参加した。翌年末、彼らはオーストリア軍を追って、ウィーンに迫った。しかし、ナポレオンは1801年2月、オーストリアとリュネヴィルの和約を結び、一転してオーストリアの内なる敵であるポーランドを支援しないと態度を変えた。
(引用)軍団員の怒りは大きかった。今や反抗的なポーランド軍団は、ナポレオンにとって厄介な援軍となった。軍団の過半数、6000人がサン=ドミンゴ島(ハイチ)に送られた。祖国の自由のために戦う戦士が、同じく民族の自由を守ろうとする植民地原住民と戦うことを命じられる。これほど悲劇的なことはない。大半は熱帯性気候や熱病で倒れ、再びポーランドの地に帰り得た者はわずかに300名ほどだったという。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.77>

ワルシャワ大公国

 1806年、イエナの戦いでプロイセン軍を破ったナポレオンは、プロイセン領の旧ポーランドにワルシャワ大公国を建設、翌1807年にティルジット条約と結び、プロイセンに承認させた。地域的にはポーランドのプロイセン領だった地域のワルシャワを中心とした国家で、国民はポーランド人であったが、その君主であるワルシャワ大公はドイツ人のザクセン公が兼ねたので、ポーランド人国家とは言えない傀儡国家であった。このワルシャワ大公国は、ナポレオン没落後のウィーン議定書において消滅し、その大部分はポーランド立憲王国(ポーランド王国)となって実質的にロシアの支配を受け、一部はプロイセン領となった。

ポーランド立憲王国(ポーランド王国)

ウィーン会議によって成立した、ポーランドのプロイセン領だった地域に建てられた国家だが、ロシア皇帝を国王としているので、実質的にはロシアに支配される国家だった。ポーランド王国、「会議王国」ともいう。

 ポーランドの地にナポレオンによってつくられたワルシャワ大公国は、その没落によって消滅したが、ウィーン会議において、ロシア皇帝アレクサンドル1世の主張により、その大部分の跡地にポーランド人の国家をつくることとなった。1815年のウィーン議定書によって確定し、成立したその国は、ポーランド立憲王国、または単にポーランド王国と言われたり、ウィーン会議の結果生まれた王国なので、会議王国といわれることもある。近隣三国によって分割されて消滅したポーランド国家の称号が復活したが、国王はロシア皇帝が兼ねているので、実質的にはロシア領であった。

ポーランドの独立運動

 ロシアのアレクサンドル1世は、ポーランドの伝統の議会の復活を認めたので「立憲王国」とされ、当初は一定の自治を認めていたが、ロシア本国にはない議会の存在を忌まわしく思うようになり、次第に無視し専制政治を押しつけるようになった。
 ウィーン体制のもとで抑圧されていた自由主義や民族主義の思想はポーランドでも生まれ、ポーランド人はたびたび独立運動を続けていたが、1830年にはフランスの七月革命の影響を受けて、ワルシャワでポーランドの反乱が起こった。この反乱は翌年まで続き、一時は議会が独立を宣言するところまで行ったが、ロシア軍によって弾圧されてしまった。ポーランド人のピアノの名手ショパンが憤激し、「革命」を作曲したのがこの時である。
 すでに1846年にクラクフやガリツィアで民族蜂起が起こっていたが、1848年に「諸国民の春」といわれる自由主義・民族主義の高揚が起こると、ポーランドはヨーロッパの焦点の一つとなった。しかし、ポズナニで国民委員会が設立されたが、プロイセンの介入によって解散させられてしまった。むしろポーランド人は、亡命者としてハンガリーやイタリアでのオーストリアとの戦いに参加して活躍した。

1863年 ポーランドの反乱

 ロシアがクリミア戦争で敗れて、アレクサンドル2世が農奴解放令などの改革を実施すると、ポーランドの民族主義運動も刺激されて1863年1月にポーランドの反乱が起こった。しかし、ロシアは鎮圧軍を派遣して厳しく弾圧し、かえってポーランドに対するロシア語の強制など一体化を進め、ポーランド王国は名前だけの存在となった。その後もポーランドに対してはロシアやプロイセン、オーストリアなど周辺諸国の圧迫がつづき、独立運動は1世紀以上にわたって抑えられ続けた。このような時代のポーランドで、ユダヤ人であったザメンホフは、言語の違いから来る民族対立を解消しようとして、人工国際語としてエスペラントの創作に工夫したが、それはロシアのツァーリ政府からは弾圧された。
 ポーランド独立がようやく実現するのは、第一次世界大戦の勃発とロシア革命によりロシア帝国が消滅した1918年であった。

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(5)ポーランドの独立

第一次世界大戦中にロシア革命が勃発したことを受け、1918年にポーランド共和国として独立を達成した。しかし国家主席ピウスツキは革命で混乱するソヴィエト=ロシアに侵攻し、ソヴィエト=ポーランド戦争が勃発、領土を現在のウクライナ、ベラルーシまでに拡大した。1926年から独裁政治をさらに強化した。

第一次世界大戦とロシア革命

 第一次世界大戦が勃発するとポーランドではピウスツキらが軍団を組織して、ドイツ・オーストリアと結んでロシアと戦った。しかしドイツ・オーストリアがロシアにかわってポーランドを支配すると、その独立を認めず、形だけの政府を認めるに留まった。ピウスツキは反ドイツ姿勢に転じたため、投獄されてしまった。
 ところが1917年11月のロシア十月革命で成立したソヴィエト政権は、ただちに「ロシアにおける諸民族の権利の宣言」を公布し、各民族の自決権を認めた。続いて翌年8月には三国によるポーランド分割条約の破棄を声明した。
 一方、アメリカのウィルソン大統領もこれに対抗して、十四カ条の原則のなかで、「海への自由な出口を持つポーランドの独立」を認めた。また1918年3月のソヴィエト政権とドイツの間で締結された講和条約であるブレスト=リトフスク条約でもソヴィエト側が領土主張を放棄した。

ポーランド共和国の成立

 ドイツの敗色が濃厚になるとドイツ寄りの政府に対してストライキなどの抗議が相次いだ。分割国家の状況が長かったため、統一政権の樹立は困難であったが、ドイツが敗北して解放されたピウスツキがポーランドに戻ると政府は彼に全権を移譲した。こうして1918年11月11日、ピウスツキを国家主席としする共和政国家として独立を回復した(第二共和制)。この日はドイツが停戦に応じ、第一次世界大戦が終結した日であった。

国土の回復

 独立を回復したポーランドは、1919年1月から始まったパリ講和会議に代表パデレフスキー(当時、ピアニストとしてヨーロッパで広く知られていた)を派遣、米英仏強国主導のもとで独立国としての存在を高めようとした。ポーランドの独立はウィルソンの十四ヵ条宣言でも提唱されており、講和会議参加でそれが認められた形となった。
ヴェルサイユ条約 パリ講和会議ではドイツとの国境策定が重要な議題の一つされたが、ドイツからポーランド回廊を獲得してバルト海に出口を得た。ただし、ドイツ系住民の多いダンツィヒは国際連盟管理下の自由都市とされることになった。これらの内容は、1919年6月、ヴェルサイユ条約にポーランドも含む連合国とドイツが署名したことによって確定した。また、かつてポーランド領でドイツ領となっていたシュレジェンの大部分はポーランドとチェコスロヴァキアで分割し、上シュレジェンは住民投票で帰属を決めることになった(22年に実施された投票ではドイツ領に留まることになった)。
サン=ジェルマン条約 オーストリアとは講和条約サン=ジェルマン条約が締結され、オーストリアはポーランドの独立を承認した。これによってポーランドは正式にロシア、オーストリアに支配されていた国土を回復した。

ピウスツキーの独裁政権

 独裁的な権力を得た国家主席ピウスツキは、さらに18世紀末のポーランド分割以前の領土の回復をめざして、1920年革命後で混乱しているロシア領に侵攻し、ソヴィエト=ポーランド戦争を起こした。ソヴィエト軍の反撃は一時ワルシャワまで迫ったが、フランスの援助で1920年8月16日、ピウスツキが指揮して「ヴィスワの奇跡」といわれた勝利を挙げ、ソ連軍を敗北に追いこんだ。
 この戦いでポーランドは独立を維持し、1921年3月のリガ条約で、ベラルーシとウクライナの西部を獲得し、さらに22年にはリトアニアとの係争地ヴィルノを獲得、ポーランドは38万8千平方㎞の面積を有する大国となった。人口は2700万を数えるに至ったが、そのうちポーランド人は7割に満たず、850万を超えるウクライナ人、ユダヤ人、白ロシア人、ドイツ人などの少数民族をかかえこむこととなった。
 ピウスツキはいったん辞任するが1926年にクーデタで再び権力を握り、以後1935年まで独裁者として君臨する。

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(6)第二次世界大戦とポーランド分割

1930年代には西のドイツにナチスが台頭、東のソ連ではスターリン体制が成立し、この二大国に挟まれ苦境が続く。1939年9月、ドイツ軍がついにポーランドに侵攻、同時に密約に基づいてソ連軍が東から侵攻、ポーランドはそれぞれ軍事占領され、再び東西に分割された。しかし1941年独ソ戦が始まると、ドイツはソ連軍をポーランドから追い出し、さらにソ連領に侵攻。その間、ポーランドはドイツの占領下となり、ユダヤ人虐殺が行われる。それに対する抵抗運動、解放運動も始まる。

ナチス=ドイツの圧力

 ドイツのヒトラーは1935年、ポーランドに対してポーランド回廊の自由通行を要求、圧力をかけた。1938年、ミュンヘン会談で宥和政策を採るイギリス・フランスの譲歩を勝ち取ったヒトラーは、チェコスロヴァキア分解に成功すると、いよいよポーランドへの野心を露わにし、一方で宥和政策に反発していたソ連のスターリンとの間で、1939年8月、独ソ不可侵条約を締結した。ようやく宥和政策を見直したイギリスとフランスは、同月、相次いでポーランドとの相互援助条約を締結して、ポーランドの防衛に当たる姿勢を示した。

ドイツ軍・ソ連軍の侵攻

 1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発、電撃戦によってポーランドに侵攻したドイツ軍は、わずか三週間でポーランド軍を壊滅させ、27日には首都ワルシャワが陥落、ポーランドは10月5日に降服し、首都ワルシャワを含むその西半分はドイツの占領下に入った。イギリスとフランスは、ただちにドイツに対して宣戦布告をしたが、相互援助条約があるにもかかわらず、ドイツを西側から攻撃してポーランドを助けるという軍事行動は起こさなかった。陸上でドイツと英仏軍の抗戦が始まるのは40年5月であったので、この交戦状態にありながら軍隊を派遣することもなく戦闘が始まらなかった状態から「奇妙な戦争」と言われた。
 一方、独ソ不可侵条約の秘密協定でポーランド分割を密約していたソ連(スターリン政権)は、1939年9月17日にポーランド侵攻を開始、約10日間でその東半分を制圧し、さらに西ウクライナ、白ロシアを占領した。
 こうしてポーランドは、18世紀終わりのプロイセン、オーストリア、ロシアによるポーランド分割以来、再び東西の強国によって分割支配されることとなった。これを「第4次ポーランド分割」と呼ぶこともある。ポーランドのシコルスキ大将はロンドンに脱出し、亡命政府を設けた。
 ドイツとソ連は早くも1939年9月28日、ポーランドを折半した。ドイツは隣接する西部(ポズナニなど)を本国に編入し、ワルシャワを含む中心部は総督府を置いて統治し、ソ連はウクライナ人とベラルーシ人の居住地を勢力圏に収めた。ドイツは支配地域のゲルマン化をすすめ、ユダヤ人に対する絶滅政策を強行し、多くのユダヤ系ポーランド人が殺害された。ソ連は人種的な差別政策は採らなかったが、反ソ的な動きは厳しく弾圧し、1940年には亡命政府と繋がりがあるとされたポーランド国内軍の将校1万人以上と旧体制関係者数千人を秘密裏に殺害した(ソ連は当初、ドイツ軍の犯行としたが、戦後にカチンの森事件として明らかにされた)。
ナチスによるユダヤ人絶滅政策 ポーランドを占領したナチス=ドイツは、ユダヤ人に対する民族差別政策を持ち込み、ユダヤ人絶滅政策を強行した。1940年1月からユダヤ人居住区(ゲットー)を封鎖して経済的に追いこみ、42年からは「ユダヤ人問題の最終解決」と称してシュレジェン地方のアウシュヴィッツ(現在のオシフィエンチム)等の絶滅収容所に移送してユダヤ人の大量殺害を実行した。43年4~7月、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は絶望的な蜂起を敢行したが鎮圧され、絶滅政策の犠牲となったユダヤ系ポーランド人はあわせて270万人と推定されている。<『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新装世界各国史20 山川出版社 p.268>
独ソ戦開始後の形勢転換 1941年6月、独ソ戦が開始されたことによってイギリスとソ連は軍事同盟を結び、さらにドイツ軍がモスクワやスターリングラードに迫るなかで、同年12月日本の真珠湾攻撃を機にアメリカが参戦、アメリカ軍も欧州戦線に派遣されて連合国軍として協力してドイツ・日本にあたることとなった。1943年3月、スターリングラードの戦いによって形勢を逆転させたソ連軍がドイツ軍に攻勢をかけ、ポーランドの解放に向けて進撃を開始した。

ポーランド問題

 このような情勢のもと、連合国の戦後処理構想を構築するための会談が開始された。この連合国首脳会議で、ソ連の戦線参加の仕方をめぐる第二戦線問題と共に、イギリス(チャーチル)とソ連スターリン)は大戦後のポーランド国境をどこに置くか、またどれをポーランド政府として認めるかをめぐって対立した。このいわゆるポーランド問題は、連合国内部の深刻な対立案件として話し合いが続けられることとなった。
 1943年のテヘラン会談では、チャーチルはソ連赤軍によってポーランドが解放されると、東欧全体へのソ連の影響力が増すことをおそれ、その前にポーランド国境を確定することが有利と考え、西側をオーデル=ナイセ線、東側をカーゾン線(ヴェルサイユ条約でのポーランド・ロシアの国境線)で妥協しようとした。しかしロンドンのポーランド亡命政府(ミコワイチク首相)はさらに東寄りの従来の国境線までにすることを譲らず、問題を持ち越した。
 また、戦後のポーランドの政権としてイギリスはロンドンの亡命政府を正統と認めるのに対して、軍事力でポーランド解放を実現しつつあったソ連は国内に残った共産党系勢力が結成した国民解放委員会(ルブリン政府)を支援して譲らなかった。その中で、1940年のカチンの森事件がおこり、また1944年のワルシャワ蜂起がソ連軍の支援を得られず壊滅するなどの悲劇が生まれた。

ワルシャワ蜂起

 ドイツ支配下のポーランドの首都ワルシャワで1944年8月1日からポーランド国内軍と市民による反ドイツの蜂起が始まった。63日にわたる戦闘の末、10月2日にドイツ軍によって鎮圧され、兵士1万8千と市民約15万が死んだ。
 当時ソ連軍がワルシャワに迫っていたが、結局ソ連軍はワルシャワ蜂起を見殺しにしたと言われる。当時ソ連軍は東からドイツ軍を追撃し、ワルシャワに迫っていたが、ロンドンのポーランド亡命政府はソ連軍によってワルシャワが解放されると戦後の指導権をソ連に握られると考え、国内軍に指示して蜂起を早めたのだった。またソ連は1940年3~4月に起こったカチンの森事件でポーランド亡命政府と対立しており、進撃のスピードを緩め、蜂起軍を救援しなかった。もともと無理な蜂起であったこととソ連軍の支援がなかったため、蜂起は63日で鎮圧され、ポーランド兵1万8千、市民15万が死んだ。国内軍は再び地下に潜り、ロンドンの亡命政府の立場は弱まった。

Episode ワルシャワ蜂起の悲劇

(引用)八月一日、蜂起。決起兵士三万数千人のうち、十分な武装のできた者は一割ほどだった。それでも八月四日までに国内軍は市の大半を解放した。だがそのとたんにソ連の放送は調子を変えた。ロンドン陣営に対する非難を再開する一方で、八月一日から一三日間、ワルシャワ蜂起について一切言及しなかった。他方、第一白ロシア軍団の破竹の進撃も、急に停止した。英米両国は大規模な空輸作戦の遂行のためソ連空軍基地の使用を申請したが、認められなかった。・・・一〇月二日、ワルシャワは六三日間にわたる闘争ののち降伏した。蜂起軍兵士一万八〇〇〇人の他に、ともに戦った約一五万人の市民が死んだ。ポーランド人の多くは今でも彼らを「最良の息子たち」と呼び、いとおしんでいる。ヒトラーは、ワルシャワの完全な破壊を命令した。建築物の約八割が爆破され、ワルシャワは文字どおり瓦礫の山と化した。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』三省堂選書 1980 p.198>

東西国境の画定

 1945年のヤルタ会談でも、その主要な議題はポーランド問題に割かれることとなり、激しく駆け引きが行われた結果、ようやく妥協が成立し、その東側国境はカーゾン線、西側国境はオーデル=ナイセ線とすることで決着し、ポツダム協定でドイツとの講和条約が締結されるまでの暫定的なものと定められた。これによってポーランドの領土は大きく西側にずれることとなった。しかし、ポーランド問題は第二次世界大戦後の東西冷戦や、1989年の東欧革命、そしてその後の東欧情勢にも暗い影を落としている。

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(7)ポーランド人民共和国 社会主義政権の成立

第二次大戦後に独立を回復したポーランドでは1945年に挙国一致内閣が成立したが、主導権をめぐり共産党(当時の党名は労働者党。後に統一労働者党となる)と非共産党勢力が激しく抗争した。結局、1952年にソ連の支援を受けた共産党が権力を握り東側陣営の一員として社会主義体制をとり、ポーランド人民共和国となった。領土問題も東西対立の一つの焦点となったが、東はカーゾン線、西はオーデル=ナイセ線とするなど、戦前に比べて全体が大きく西に移動する形として妥協が成立した。

解放と苦悩

 ポーランドは第二次大戦勃発とともに、ナチス・ドイツとスターリン・ソ連によって分割占領された。大戦末期のポーランド亡命政府(ロンドン)とソ連および国内のソ連系国民解放委員会(ルブリン政府)の関係は、カチンの森事件や、ワルシャワ蜂起の失敗によって悪化し、1945年2月のヤルタ会談でのポーランド問題の話し合いによる調停も実を結ばなかった。
 そのため、1945年4月に連合国によって開催されたサンフランシスコ会議にポーランドは代表を送ることが出来なかった。1945年5月にドイツが降伏、ようやく6月、亡命政府のミコワイチクが帰国して国民連合政府樹立に合意、ポーランド労働者党(42年に共産党から名称変更)書記長のゴムウカとともに副首相となった(首相は社会党左派のモラフスキ、大統領代行は労働者党のビエルト)。この統一政府のもとでポーランドは国際連合憲章に署名し、国際連合の発足時の連合国51カ国に加わることができた。 → 国際連合の加盟国

Episode 『灰とダイヤモンド』

 5月8日、ドイツ軍の降伏、大戦の終結を知らせる放送が流れるポーランドのある街で、一人の若いテロリストが警察に追われ射殺された。彼の名はマチェク。ポーランド労働者党(共産党が改称)の幹部を殺し逃げていたのである。アジェイェフスキの小説『灰とダイヤモンド』はこのポーランドの「解放」された一日の出来事を濃厚に描いている。この日、ナチスドイツの崩壊は、ポーランドの新たな抑圧の始まりとなった。ドイツ軍を駆逐したソ連軍のバックアップによって、労働者党による支配が始まったのだ。ポーランド人の「自由」への願望はスターリン主義という新たな権力によって再び抑圧される。この作品は1957年、アンジェイ=ワイダ監督によって映画化され、その鮮烈なラストシーンは、ポーランドの戦後を暗示していた。

ゴムウカの権力掌握

 新政府のもとで自由な総選挙が予定されていたが、労働者党のゴムウカはそのままでは敗北が予想されたので「民主主義ブロック」選挙という事前に各政党に候補者を割り振り、公認されたものだけの立候補を認めるという方法を国民投票で認めさせた上で選挙に踏み切り、他党の選挙運動を事実上不可能にして多数を確保した。ミコワイチクは絶望して再び亡命、事実上ポーランドは労働者党の一党独裁の下に置かれることになった。このような見かけは民主的な選挙だが、事実上は共産党だけが当選するようなしくみの「民主主義ブロック」選挙はブルガリアやアルバニア、ユーゴスラヴィアなどの東欧圏でしばしば行われた。

ポーランドの国境変更

 領土問題は戦後の東西対立の一つの焦点となったが、西側のドイツとの国境は当面、オーデル=ナイセ線とされ、ダンツィヒ周辺の旧ドイツ領飛び地も含めてポーランド領とされた。
 ポーランドの国境は第二次世界大戦で大きく変更となった。戦前にはドイツ領が現在のポーランド内にかなり食い込んでおり、またポーランド領は現在のウクライナやベラルーシに食い込んでいた。戦後、ポーランド全体が西に移動したといえる。西ではオーデル=ナイセ線がポツダム協定で暫定的な国境とされ、懸案だったダンツィヒポーランド回廊はポーランドに返還され、1970年の西ドイツ=ポーランド国交正常化条約で確定した。東部のソ連との国境は、かつて第一次世界大戦後の1920年にイギリス外相カーゾンが策定したカーゾン線に添って定められ、ポーランドとソ連の国境は大幅に西に移動、ソ連領が広がった。また、東側のベラルーシやウクライナの一部はソ連に返還した。その結果、ポーランド領は戦前に比べて全体が大きく西に移動する形となった。

ゴムウカの人民民主主義

 労働者党の指導者ゴムウカは当初、親ソ派のスターリン主義者と見られていたが、1947年の東西冷戦が表面化した頃から微妙な変化を見せ始めた。アメリカが発表したマーシャル=プラン(経済復興支援計画)をゴムウカは受け容れる意志があったが、スターリンはそれに反対し、共産党の連携を強化するためコミンフォルムを結成した。ゴムウカはコミンフォルに対して懐疑的で、ポーランドでの社会主義革命を非暴力で行い、一党独裁も否定し、小農民の自営も維持、カトリック教会との協力も必要との考えを示した。これは当時東欧諸国の共産党に見られた人民民主主義といわれる潮流に沿ったものであった。ゴムウカはその一環として1948年には労働者党と社会党を合同させて統一労働者党を成立させようとした。
ゴムウカの失脚 しかし、それに対してスターリンはゴムウカを「右翼的民族主義的偏向」として非難し、親ソ派を動かしてゴムウカを労働者党から除名した。48年末、統一労働者党が成立したが、親ソ派(モスクワ派)が主流を占めスターリン体制に組み込まれることとなり、集団化と重工業化が推進されていった。51年にはゴムウカ自身が投獄されるという事態となった。

ポーランド人民共和国の成立

 1952年、ポーランド人民共和国として正式に独立を宣言、共産主義を掲げた憲法を制定したが、ソ連の衛星国として外交ではコミンフォルム、経済ではコメコン、軍事では1955年からワルシャワ条約機構を構成するメンバーに組み込まれた。スターリン派主導の農業集団化、重工業化が強行される中で、ブロック別候補者事前登録制の選挙は事実上自由選挙ではなく、カトリックが大多数を占める民衆は自由の抑圧に対する不満を強くしていった。

ポーランド反ソ暴動

 1953年にスターリンが死去し、さらに56年、ソ連共産党自身がスターリン批判を行うに及び、ポーランド民衆の自由化要求は、まずポズナニの暴動となって現れ、1956年6月28日、ついに全国的なポーランド反ソ暴動として爆発した。統一労働者党は急遽ゴムウカを復帰させることで収拾を図った。ソ連のフルシチョフは軍隊を国境に集結させると共に自らワルシャワに乗り込んで圧力をかけたが、ゴムウカは独自の国内政治の実行を主張する一方でワルシャワ条約機構からは離脱しないことを条件にするという妥協を行い、ソ連軍の実力行使は回避された。ゴムウカはこれによって権力に復帰し、スターリン派に代わってソ連からの一定の距離を置いた社会主義路線をとることとなる。
 ゴムウカがワルシャワ条約機構というソ連との軍事同盟を破棄しなかったのは、ポーランドが西側にドイツと接しており、領土問題がまだ不安定であったことから、ソ連と対立することは不利と考えたからであった。

(8)ポーランドの混乱と「連帯」の登場

ゴムウカ指導の社会主義体制下のポーランドは次第に教条的となり、経済停滞が目立ち始めた。1970年に物価値上げに反発した労働者のストが起きるとゴムウカは解任された。替わったギエレク政権の下で経済改革(市場経済の導入)などの試みが行われたが民主化を伴わない経済改革は失敗し、民主化を求める反政府運動が始まった。1980年に食肉などの値上げに反対する労働者の運動から、ワレサが指導する自主管理労組「連帯」が生まれると、翌年ヤルゼルスキ政権は戒厳令を布告して民主化運動を弾圧した。

70年代 停滞と混乱

1970年 政府の物価値上げ政策に抗議した民衆のデモが北部のグダニスク造船所で起こり、全国に波及。数都市で暴動に発展したため、政府は軍隊を出動して鎮圧する一方で、責任をとってゴムウカ統一労働者党第一書記が退陣した。後任にはギエレクが就任した。ギエレク政権は民衆との対話を約束、賃金、年金の引き上げ、土地売買の自由などの経済改革に着手したが、1973年の石油危機(第1次)の影響を受けて経済運営に失敗、巨額の財政赤字を累積させた。
1976年 ギエレク政権は、党の指導性を強化した憲法改正を強行、また大幅な物価値上げ(肉類69%、バター50%、砂糖100%など)を打ち出した。再び労働者、市民のデモが広がり、暴徒化した。学生、知識人の憲法改正反対運動も激化し、政府の不当逮捕に対する抗議運動がヨーロッパ各地に広がる。

80年代 「連帯」の登場

1980年 1980年7月、政府は食肉などの値上げを発表。8月、グダニスクのレーニン造船所の労働者がストライキに突入。労働者の代表ワレサが政府との交渉を要求、8月31日に政労合意協定(グダニスク協定)が成立した。それによって自主管理労組(統一労働者党の統制を受けない労働組合の意味)の結成と、スト権、経済政策への発言権などが認められた。また、賃上げ、週休二日制などの労働者の権利向上、検閲の見直し、宗教団体のマスメディア利用の承認と言った自由化が約束された。
 それらの動きを受けて1980年9月1日に、全国の自主管理労組が結集して「連帯」(ソリダルノスチ)を結成、ワレサが議長に就任した。政府側はこの大幅譲歩の責任をとって、ギエレクが辞任、カニアが第一書記となった。
1981年 このようなポーランドの自由化の動きを警戒したソ連の圧力が強まる。ポーランドでは体制強化のため、ヤルゼルスキ国防省が首相を兼任、連帯の運動を抑圧する。抵抗する連帯側にも強硬派が台頭、対立が激化。ついに1981年12月13日、ヤルゼルスキ首相は戒厳令を敷き、連帯の活動家を逮捕、弾圧に踏み切った。ヤルゼルスキは「救国軍事評議会議長」として権力を集中させる一方、一定の経済自由化を推進し、複数政党による選挙なども認めるなど「上からの民主化」をはかり、ワレサも釈放して懐柔に努めた。
1983年 1983年6月、ポーランド出身のローマ教皇ヨハネ=パウロ2世が、里帰りし、各地で熱狂的な歓迎を受けた。ポーランド民衆には熱心なカトリックが多く、ローマ=カトリック教会の影響力が大きいのが特徴といえる。ヨハネ=パウロ2世はヤルゼルスキと会談して、その結果、7月に戒厳令は解除、救国軍事評議会も解散された。戒厳令下でも自主管理労組連帯は宣伝活動を継続、国際的な関心を集めていた指導者ワレサに同年のノーベル平和賞が贈られた。

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(9)ポーランドの民主化と現代

80年代に始まった「連帯」による民主化運動は、1989年1月にヤルゼルスキ政権が複数政党制を認めたことで一気に進み、同年の一連の東欧革命、更に翌年の東西ドイツの統一、そして91年のソ連崩壊という東欧社会主義圏の激変の先駆となった。社会主義体制を放棄してポーランド共和国となり、1999年にはNATO、2004年にはEUに加盟した。

ポーランド共和国の現在

ポーランド国旗  ポーランドは、北をバルト海に面し、西はドイツ、東はロシアに接する、東ヨーロッパの大国。面積は日本の約5分の4。人口は約3800万。国土の大部分は平原で、ポーランドという国名も、平原という意味のポーレに由来するという。
 ポーランド国旗(右図) 赤と白はナショナル・カラーとされ、白は純血と歓喜、赤は独立と民衆の流血を表すとされている。しかし元来は9世紀の半ば、「夕陽に白鷲が飛んでいくのを見たらそこに都を築け」という神の啓示に従い、レヒがワルシャワの地に国を築いたという建国神話に由来している。<辻原康夫『図説・国旗の世界史』2003 ふくろうの本 河出書房新社 p.48>

宗教と文化

 ポーランド人は西スラヴ系で、ロシア人などと同系統であるが、人口のほとんどがカトリック教徒で、その点で文化的には西側に近いといえ、ギリシア正教の多いロシアと異なっている点である。東欧の中で高い文化的水準を持っており、古くはコペルニクス、近代では音楽のショパン、パデレフスキ、文学でのシェンキェヴィッチ(『クォヴァディス』など)、科学者のキューリーなどが出ている。

ポーランド民主化

 社会主義政党であるポーランド統一労働者党ヤルゼルスキ政権は、民主化運動を弾圧しながら経済安定をはかったが物価上昇続き、社会不安が強まった。1988年4~5月ストライキが頻発、緊迫した情勢を打開するため、1989年2月から政府主催でワレサら連帯代表者も加えて円卓会議が開催された。
1989年の東欧革命  1989年2月に始まった円卓会議では「連帯」などの民主化要求が認められ、大統領制の導入、複数政党制による自由選挙などが認められ、ポーランドの民主化が具体的に始まった。さらに1989年6月には東欧で最初の複数政党制による自由選挙が行われ、9月にはこれまた東欧最初の非共産党による「連帯」系のマゾビエツキ内閣が成立、12月には国名から「人民」をはずしてポーランド共和国に変更するところまで一気に進行した。このポーランドの動きは一連の東欧革命の先駆的役割を果たした。翌年、統一労働者党は解散し社会民主党と改称した。

民主化後のポーランド

 1990年、「連帯」議長のワレサが大統領となった。ワレサは1980年以来の民主化の象徴的人物で人気が高かったが、次第にその権力を露骨に求める姿勢が非難されるようになり、1995年の大統領選挙では旧共産党系の候補者に敗れた。
 この間、ポーランドはヴィシェグラード=グループのチェコ、スロヴァキア、ハンガリーとともに、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、さらに2004年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。 → EUの東方拡大

Episode 双子政権と大統領の事故死

 その後、ポーランドでは民主改革派と旧共産党系とが交互に選挙で勝って政権を担当しているが、2005年12月に保守系大衆政党「法と正義」(略称PiS)のレフ=カチンスキ(旧連合活動家)が大統領に当選、さらにヤロスワフ=カチンスキという一卵性双生児の兄を首相に任命した。双子で大統領と首相を兼ねるのはいかがなものか、という不安が西側諸国であがった。しかし翌年の総選挙では「法と正義」が敗れたためヤロスワフは首相を退任し、双子政権は長く続かなかった。
 2010年4月10日、カチンの森事件70周年追悼式に向かった大統領専用機が墜落、レフ=カチンスキ大統領が同乗していた妻と政府高官と共に死亡するという事故が起こった。同行していなかった兄は難を逃れ、6月に行われた大統領選挙に出馬したが、決選投票でコモロフスキ(連帯の出身で中道右派「市民プラットフォーム」代表)に敗れた。  2015年に行われた総選挙ではヤロスラフ=カチンスキーの率いる「法と正義」(PiS)が他の右派政党との協同に成功して圧勝し、政権に返り咲いた。

ドイツに対する賠償請求

 保守系与党「法と正義」(PiS)の党首ヤロスラフ=カチンスキーは2022年9月1日に演説し、第2次大戦中のナチス・ドイツの侵攻と占領による損害が約6兆2000億ズロチ(約183兆円)に上るとの試算を公表し、ドイツ政府に賠償交渉を求める方針を示した。<ロイター通信 2022/9/2 記事
 ポーランドは第二次世界大戦でドイツ、ソ連に占領され、人的、経済的に大きな被害を受けた。大戦中に人口の約17%が死亡したとされており、このなかには、ドイツのホロコーストで殺されたユダヤ系ポーランド人300万人も含まれている。戦後、チャーチル、ルーズベルト、スターリンは、ポーランドに対するドイツの補償は、ソ連を通じ、現金ではなく物資、インフラ、食糧などの形態で支払われることに合意した。1953年には、ポーランドはロシアと旧東ドイツとの条約に調印し、賠償請求権を放棄している。また、ドイツの統一に関する米英仏ソの会議の後、1970年に西ドイツ=ポーランド国交正常化条約に調印した(1990年のドイツ統一によってドイツ=ポーランド間の条約となる)。さらに1991年には善隣友好条約に調印。この際、ポーランド側から賠償金に関する話はなかったとし、ドイツはこれをもって問題は解決しているいう暗黙の了解があったと理解している。
 それに対してポーランドの保守派「法と正義」政権は、1953年の条約は無効だと主張している。その理由は、当時の政権には、衛星国東ドイツを戦争責任から解放したいというソ連の圧力があり、同じソ連衛星国という立場上、ポーランドは賠償請求権を放棄させられたのであり、公平な交渉ができなかった条約は無効であったというものである。<NewSphere ,Sep-6-2019 記事
(引用)ドイツの侵攻から80年もたったいま、ポーランドがドイツに補償を求める理由は何であろうか。ロイターによれば、補償の話が再燃したのは2015年に右派のPiS(法と正義)が政権を取ってからだ。同党にとって戦争の記憶はその「史実に基づく政治」の主要な綱領であり、ヨーロッパはナチス支配下のポーランドの苦しみや勇敢さを十分に理解していないとして反発している。PiSの野望は世界でポピュリストたちが歴史修正主義を利用するいま、有権者のナショナリズムを煽ることだとする批評家の声もある。<NewSphere ,Sep-6-2019の記事より引用>

NewS ドイツ、ポーランドの賠償請求を拒否

 2023年1月3日、ポーランド外務省の声明によると、ドイツ政府から昨年12月28日付の書面で、賠償問題は決着済みで交渉を始める予定はないと通知されたという。ポーランドは10月に正式に賠償を請求していた。ポーランドは、損害が約6兆2000億ズロチ(約180兆円)に上ると試算しており、今後も国連に協力を求めるなどして要求する構えだという。<時事通信 jiji.com 2023/1/4 記事

(10)ポーランドとローマ=カトリック

ポーランドの歴史で特徴的な点は、ローマ=カトリック教会との結びつきが強いことである。

ローマ=カトリックの受容

 ポーランドのローマ=カトリック教会受容は、966年の初代国王ミエシュコ1世に始まる。このころドイツ王オットー1世は、ポーランドのキリスト教化を口実に支配を及ぼそうとしたので、ミエシュコ1世は先手を打ってキリスト教徒のボヘミア王の娘を妻に迎えて洗礼を受け、さらに991年ごろポーランドをローマ教皇庁に寄進した。これ以後、ポーランドとローマ教会は深い結びつきを持つようになる。

宗教改革期

 16世紀の宗教改革ではルター派とカルヴァン派の影響も及び、特にシュラフタ(貴族)層ではカルヴァン派が有力となった。これは王政に対して反発し、一種の貴族民主政であるシュラフタ民主政を形成していたシュラフタの自由主義的な傾向と一致したからであろう。ヤゲウォ朝の選挙王制でも、国王はカトリックたるべしと言う前提はあったが、国王は宗教に関しては寛容な姿勢を取らざるを得なかった。後世から見ればポーランドはカトリック国というイメージが強いが、当初はプロテスタントもかなり存在したことには注意しておこう。

対抗宗教改革

 しかし17世紀には対抗宗教改革を経て、カトリック教会が優勢となった。ポーランドのカトリック信仰は、西のプロイセン(ドイツ人)のプロテスタント、東のロシアのギリシア正教という二つの勢力の間にあって、いずれにも与しない民族としてのアイデンティティでもあるようだ。ポーランドのカトリック教会はナチスの支配と戦後の社会主義体制下においても自由を求める民衆の側に立っていた。

ヨハネ=パウロ2世

 1978年にローマ教皇(法王)となったヨハネ=パウロ2世はポーランド出身でクラクフ大司教だった。彼が教皇となったことはポーランド人に大きな勇気を与えた。また、第二次世界大戦後のポーランド人民共和国時代、1980年代のポーランドでに社会主義体制が動揺して「連帯」による民主化の動きが強まり、国論が分裂したときも、カトリック教会が国家統合に大きな力を発揮することになる。