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アメリカ独立戦争

1775年に始まったアメリカ植民地のイギリスからの独立の戦い。1776年、アメリカ合衆国が独立宣言。フランスの支援などもあって独立軍が勝利し、1783年、パリ条約で独立が承認された。

 アメリカ独立戦争は、イギリス13植民地が本国に対して起こした戦いであり、アメリカ合衆国を成立させた戦争であり、同時に市民社会を成立させたブルジョワ革命であることからアメリカ独立革命ともいわれる。
 1775年4月のボストン郊外のレキシントンでの植民地軍とイギリス本国軍の衝突に始まり、1781年10月のヨークタウンの戦いでのアメリカ軍の勝利によて事実上戦闘が終わり、1783年9月のパリ条約で終結するまでの約8年間にわたって続けられた。

独立戦争の背景

 植民地側が本国イギリスに反発した理由は、18世紀中頃にイギリスがフランスとの激しい英仏植民地戦争を展開、ヨーロッパ本土での七年戦争(1756~1763年)とアメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争でイギリスは勝利を収め、世界制覇の第一歩を築いたが、そこで生じた国債などの償還が必要となったため、植民地に対してさまざまな課税を強化してきた。植民地側は、本国議会に代表を派遣していないにもかかわらず、植民地への増税が議会で決められたことに強く反発した。1765年には印紙法(条令)に対してヴァージニア植民地議会において、パトリック=ヘンリーの提唱した代表なくして課税なしが決議され、対立は明確になった。

独立戦争の経緯

ボストン茶会事件 1773年4月の本国政府による茶法(茶条令)制定に反発したボストン茶会事件1773年12月に起こったことで直接的衝突へとエスカレートした。さらにその後のイギリスによるボストン港封鎖強圧的諸条令と続いた締めつけに反発して、1774年9月に植民地側はフィラデルフィアで第1回大陸会議を招集、イギリス製品ボイコットを決定して植民地の同盟(アソシエイション)を結成、両者の緊張が高まった。
開戦 1775年4月、イギリス軍は植民地人が武器を貯蔵しているとしてマサチューセッツのコンコードに舞台を派遣した。警戒していた植民地人は、イギリス軍がレキシントンの町にさしかかったときに一斉に銃撃、さらにボストンに撤退するイギリス軍を追撃してゲリラ戦でその多くを殺した。このレキシントンの戦いからアメリカ独立戦争が始まった。この時の植民地側民兵は、服装もまちまちで、銃一丁を手に、数分で戦う準備ができたので、ミニットマンと言われた。
ワシントン司令官に就任  1775年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議が招集され、ワシントンを司令官と任命した。ワシントンの率いる独立軍には植民地人が民兵として参加し、急きょボストンの救援に向かい、バンカーヒルの戦いでイギリス軍と衝突した。民兵はよく戦ったが、組織的な戦いができず、また弾薬が不足したため押されるようになった。各地で起こった植民地軍とイギリス軍の戦いも、次第にイギリス軍が優勢となっていった。
『コモン=センス』  独立軍の苦戦が続く中、1776年1月にトマス=ペインが発表した『コモン=センス』は、アメリカの独立が人間の権利にもとづく正義の戦いであると論じ、多くの植民地人に自信と勇気を与え、彼らが独立戦争に確信を持つことに大きく貢献した。
独立宣言  1776年7月、大陸会議(昨年からの第2回が継続されている)は、ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言を7月4日に全会一致で採決した。
 独立宣言は、すべて平等な権利を持つ人間が、イギリスによる植民地支配という圧政から逃れるために新しい政府を造ることを表明している。これによってアメリカ独立戦争が終わったわけではなく、また黒人やインディアンの人権が無視されていることなどの問題は残ったが、実質的なアメリカ合衆国の発足(正式には1777年アメリカ連合規約で国号となり、1788年のアメリカ合衆国憲法で確立する)として意識され、7月4日は現在も独立記念日とされている。
苦戦が続く  7月の独立宣言がだされたとき、ワシントン麾下のアメリカ軍は約2万の兵力があった。しかしニューヨークの戦いでは壊滅的な敗北を喫し、年末にはわずか3000に減っていた。多くの民兵は戦いに疲れ、自分の村に逃げ帰ってしまった。クリスマスの夜、ワシントンは少数の兵士を率いて凍りついたデラウェア川を渡り、対岸のドイツ人傭兵部隊(ヘシアンと言われた)を奇襲して敵を倒して持ちこたえた。大陸会議も、兵士への給料支給と西部の土地の無償提供を約束して兵力の増強を図った。しかし、イギリス軍はアメリカ軍の本拠地フィラデルフィアを占領し、大陸会議は西部に避難、町では王党派による独立派に対する報復が行われ、危機が続いた。ワシントン軍はフィラデルフィアの近郊バレーフォージという小村で飢えと寒さに耐えなければならなかった。
戦局の転換と国際情勢の好転  1777年10月、バーゴイン将軍に率いられカナダから南下したイギリス軍を迎え撃ったアメリカ軍はサラトガの戦いで大勝し、戦局は転換した。それまでフランスはラ=ファイエットのような個人的な参戦の他は、アメリカに対する密かな武器・弾薬の支援にとどまっていたが、このアメリカ軍の勝利を知り、1778年2月、ルイ16世が正式にフランスの参戦を宣言した。これによってこの戦争はヨーロッパでも英仏間の戦争に拡大した。さらに1779年にはスペインが、1780年にはオランダが同じくアメリカ側に参戦し、ロシアのエカチェリーナ2世も武装中立同盟を掲げた。こうして国際情勢はアメリカ独立に圧倒的に有利となった。
独立戦争の勝利  イギリスのコーンウォリス将軍はアメリカ独立の息の根を止めようとヴァージニアのヨークタウンに進攻した。しかしこの地は半島の先端の行き詰まりであった。ヴァージニアの地形を熟知するワシントンは、好機到来とばかり、ニュージャージーから急きょ南下し、ラ=ファイエット指揮のフランス軍も参加して攻撃、さらにフランス海軍がチェサピーク湾の海上からイギリス軍を砲撃した。袋の鼠となったイギリス軍は降伏、この1781年のヨークタウンの戦いの勝利で、アメリカの独立は決定的になった。その後も散発的に戦闘はあったが、事実上独立戦争は終わり、1783年の講和条約であるパリ条約でアメリカは独立を認められ、さらに国境をミシシッピ川まで伸ばすという勝利で終わった。

義勇兵の参加

 アメリカ独立軍には、フランスのラ=ファイエットがナポレオンの副官として活躍し、またポーランド人のコシューシコは技術者としての知識を活かして陣地の構築などでアメリカ軍を助けた。他にも、スペインのデ=ガルベス将軍はフロリダでイギリス軍と戦い、プロイセンのシュトイベンはワシントンに専門的な戦術を教えた。

アメリカ独立軍の勝利の要因

 軍隊の兵力、装備、訓練などすべての点でアメリカ植民地側は劣っていたが、その戦意と土地をよく知っている点ではイギリス軍に勝っていた。また、ヨーロッパからの義勇兵も加わり、フランス、スペイン、オランダがアメリカ側に参戦し、ロシアを中心とした武装中立同盟が成立するなど、国際的にも有利に展開したことが勝利を得られた大きな理由である。 → アメリカ独立革命

フランスの参戦

アメリカ独立戦争でアメリカを支援したフランスがイギリスに宣戦した。

 1778年2月、アメリカ独立戦争においてフランス(ルイ16世)は、サラトガの戦いでアメリカ軍が勝利し、戦局がアメリカに有利なのを見て、最初にアメリカを承認して同盟を結び、イギリスに宣戦した。アメリカ大陸に於ける植民地回復の好機と考えたからであった。当初、駐仏アメリカ大使フランクリンの働きかけにもかかわらず、フランスはなかなか動かなかったが、1777年10月のサラトガの戦いで形勢が逆転し、アメリカ軍が優勢になったのを見きわめての参戦であった。フランスの財務総監ネッケルは増税によらず、借入を行い、大変な人気を得た。なお、1779年にはスペインが、1780年にはオランダが同じくアメリカ側に参戦した。
 しかし、ルイ16世のアメリカ参戦の決断は大きな見返りをフランスにもたらした。アンシャンレジーム期のフランス国家財政はルイ14世の一連の戦争政策ですでに深刻な状態になっていたが、アメリカ独立戦争への参戦によって財政難は決定的となり、その危機を逃れる苦肉の策として1789年、三部会を召集したことからフランス革命が勃発する。奇しくもその年はアメリカ合衆国初代大統領ワシントンが就任し、アメリカ合衆国が本格的にあゆみを始めた年であった。
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和田光弘
『植民地から建国へ』
シリーズアメリカ合衆国史①
2019 岩波新書