魔女裁判/魔女狩り
中世のキリスト教世界で行われた異端排除のための宗教裁判。13世紀に盛んになり、18世紀まで行われた。
魔女は呪術を使って人々に害を及ぼすと古い時代から信じられていた存在であったが、急激にそれに対する恐怖心が煽られ、多くの人が魔女として迫害されるようになったのは、11世紀からで、ちょうどヨーロッパのキリスト教社会での教皇権が絶頂に向かう反面、ローマ教会の権威を否定する「異端」各派の運動(ワルド派やカタリ派(アルビジョワ派)など)が活発になった時期であった。
異端審問から魔女裁判へ
特に13世紀の初め、「アルビジョア十字軍」の後、「異端審問」が強化され、異端に対する徹底的な撲滅がめざされるなかで、異端は魔女と結びついているとされ、14世紀には魔女そのものを取り締まる「魔女裁判」が行われるようになった。魔女とされたのは、「悪魔と通じて未来を占い人を破滅に導く者」とされ、社会の中で孤立している弱者を魔女に仕立て上げて、社会の不満をそらす意味合いがあった。一般の民衆は、魔女が摘発され、火刑にされるのを見て、自分達の社会の安全が得られると考えたのであろう。また百年戦争の最中にイギリス軍によって捕らえられて魔女として焼き殺されたジャンヌ=ダルクのように、魔女裁判はしばしば政治的に利用された。また、黒死病の流行した時代には、魔女の仕業として、ユダヤ人が捕らえられた。魔女裁判と魔女狩り
密告によって魔女だと訴えられると魔女裁判で拷問にかけられ、自白させられて魔女と断定されると、火刑などに処せられる(イングランドでは絞首刑が多かった)。魔女といっても女性だけでなく男性の魔女もいた。魔女裁判が盛んに行われると、「魔女狩り」はあらゆる反社会的存在に及ぶこととなり、その犠牲者が増えていった。中世末期のルネサンス時代には、人間の尊厳や自由が意識されるようになったが、民衆の中の魔女に対する恐怖心はなかなか無くならず、ルネサンス時代にむしろ魔女狩りは頻発するようになり、1600年前後がその最盛期であった。宗教改革と魔女狩り
魔女狩りはもともとカトリック教会が中世において、異端を取り締まるための魔女裁判として行われていたものであったが、16世紀に宗教改革が始まると、新旧両派がそれぞれ敵対する宗派を魔女として告発するようになり、それは1600年頃を最盛期に、17世紀まで持ち込まれる。また注意しなければならないのは、魔女裁判や魔女狩りはカトリック教会によっておこなわれたばかりではなく、新教徒側も盛んに行ったことである。激しい宗教戦争の中で、非寛容の精神を互いに高揚させ、他宗派の人間を魔女であると断定して共同体から排除することがおこなわれた。参考 気候変動と魔女狩り
(引用)1560年から1600年にかけての時代は、ヨーロッパのいたる所で気温が低く、荒天がつづいた。ブドウの収穫は遅れ、風は20世紀よりもかなり強く吹き荒れた。気候の変動は、食糧の値段を上下させる大きな要因となった。……気候条件が悪化するにつれて、増えつづけるヨーロッパの人びとの上に、さまざまな不運が重なり合って襲いかかった。不順な天候でのせいで、作物の出来は悪くなり、牛は病気になって死んでいった。飢饉があいつぎ、それとともに伝染病が広まった。パン騒動や不穏な空気に人びとは不安や不信感を募らせた。魔女狩りが盛んになり、人びとは悪天候を隣人のせいにした。ルター派の正統な信者は、1562年にライプツィヒに大雪が降ったのは、神が人間の罪に天罰を下したのだと主張した。しかし魔女狩りを防ごうとするルター派教会の砦も、天候変動で不作や食糧難や牛の疫病が広まり出すと、防ぎきれなくなった。1563年にはドイツの小さい町ヴィーゼンシュタイクで、63人の女性が魔女として火あぶりの刑に処せられた。当時、神がどれだけ天候を左右できるかをめぐって、激しい論争が交わされている。1560年代以降、魔女狩り騒動は周期的に勃発した。1580年から1620年までのあいだに、ベルン一帯だけでも1000人以上が魔術を使ったとして火あぶりになった。イングランドとフランスで魔女狩りが頂点に達したのは、1587年と翌88年の荒天つづきの最も寒く、最も困難な時期と一致していた。……しかし、科学者たちが気候現象について自然科学による解釈をしはじめると、魔女狩りは徐々に下火になっていった。……<ブライアン=フェイガン/東郷えりか他訳『歴史を変えた気候大変動』2009 河出文庫 p.175-176>
17~18世紀の魔女狩り
「17世紀の危機」の現れに、魔女狩りの流行があげられる。特にイギリスではエリザベス1世やジェームズ1世の時、「魔女狩り令」がたびたび出されている。国王の側近には哲学者フランシス=ベーコンや科学者ウィリアム=ハーヴェー(血液の循環の発見者)がいたにもかかわらず、まだ魔女の存在は信じられ、恐れられていたわけである。ドイツではケプラーの母が魔女として処刑されている。最後の魔女裁判は、イングランドが1717年、スコットランドが1722年、フランスが1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、イタリアが1791年・・・であった。<森島恒雄『魔女狩り』1970 岩波新書 による>Episode ハーヴェーが関わった魔女裁判
1633年2月、イギリス、ランカシャーのバーンリ付近の村に住むロビンソンという11歳の少年が、治安判事の前で次のような証言を行った。昨年の11月、学校をサボって近くの村に野生のプラムを採りに行った時、魔女の集会に行き合い、恐ろしくなって逃げ帰ったという。ロビンソン少年は魔女の集会に参加していた女の名をあげたため、30人が魔女として投獄されてしまった。魔女には悪魔と契約を結ぶ時身体に刻印される魔女マークがあり、それは針を刺しても痛みを感じないとされていたので、七人の外科医と10名の産婆が検査をすることとなり、国王の侍医ハーヴェーがそれを取り仕切ることになった。ハーヴェーが調べたところ、一人を除いて魔女マークがないことが判った。残る一人のマークもよくしらべると皮膚の異常に過ぎないことが判り、全員が釈放された。ロビンソン少年をロンドンに召喚して調べたところ、少年は父親から教えられた作り話をしゃべり、心付けをもらって金儲けをしようとしたと白状した。またあるときハーヴェーは魔女とうわさされる老婆のもとに行き、老婆が悪魔の使いとして飼っているガマを解剖したところ、普通のガマに過ぎないことが判った。孤独で不幸な女性が自己暗示にかかって自分が魔女であると思い込んいたのだった。<中村禎里『血液循環の発見』岩波新書 p.130-133>Episode 「セーレムの魔女」事件
イギリスで盛んだった魔女狩りは、その植民地北アメリカ大陸のニューイングランドでも行われた。有名な事件が「セーレムの魔女」事件である。1692年、ニューイングランドのセーレムという町の牧師の娘たちが魔女の疑いで逮捕された。使っていた黒人奴隷から密かにブードゥー教の魔術を授けられたというのだ。父の牧師サムエル=パリスが魔女狩りの先頭に立ち、近くのボストンなどで一斉に魔女狩りが始まり、容疑者は弁明が許されずに有罪となり、20名が絞殺された。しかし世論が魔女裁判の不合理を批判するようになり、陪審員も誤りに気付いた。最初に魔女だとされたのはただのヒステリー娘にすぎなかったのだ。アメリカではこれが最後の魔女狩りとなった。<森島恒雄『魔女狩り』1970 岩波新書 p.185>