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サンスーシ宮殿

プロイセンのフリードリヒ2世がベルリン近郊のポツダムに建設した宮殿。無憂宮ともいう。18世紀のロココ様式の代表的な建築と内装、庭園を構成している。

サンスーシ宮殿

サンスーシ宮殿

 ベルリンの南西郊外のポツダムに、プロイセン王国フリードリヒ2世が造営した離宮の宮殿。1745~47年に造営され、ロココ美術の代表的な建造物である。なお、サンスーシ sans souci とは、フランス語で、「憂いの無い」ことの意味であるので、無憂宮とも言われる。
 建造を開始した1745年は、プロイセンはオーストリア継承戦争で戦争が終わった年であり、1747年に完成し、翌1748年10月に最終的な講和条約アーヘンの和約が成立した。戦争とほぼ同時期に建造したことになる。
 ポツダムのサンスーシ宮殿は離宮ではあるがフリードリヒ2世は夏はこの地に滞在して政治を行い、かたわらフランスの啓蒙思想家ヴォルテールを招いて議論したり、フルートの演奏を楽しんだりという啓蒙専制君主としての統治を行った。
 サンスーシ宮殿は、建物・内装・庭園が一体となった18世紀のヨーロッパ文化の動向であるロココ美術の代表的遺構として、現在世界遺産に登録されている。なお、第二次大戦末期に開催されたポツダム会談は、ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿(1917年に建てられたもの)が会場で、サンスーシ宮殿ではない。(2022/1/4の記事でサンスーシ宮殿としたのは誤りでしたので訂正します)。<2022/1/31訂正>

ロココ建築の粋

 ベルイン西郊のポツダムには以前から古い離宮があったが、フリードリヒ2世はそれを改築して冬の宮殿とし、同時にワインベルク(ぶどうの山)の上に夏の離宮を建築しようとして、1745年1月13日、建築指令書に署名した。すでに前年、王が描いたスケッチが残されており、実際の建築もほとんどその通りになっている。実際に設計図を起こしたのは王太子の頃の居城であったラインスベルク以来の友人の建築家クノーベルスドルフだった。しかし、フリードリヒが離宮とはいえ、ここで政務を執るつもりだったので合理的な居住性を求めたのに対し、建築家は芸術上の完璧さを求めたため、両者の意見は食い違い火花が散った。1747年に完成した建物は、長さ97mの単層の建築で、中央には楕円形の食堂、西翼には後にヴォルテールが住むことになる部屋、謁見の間、王の居室、図書室、ギャラリーがあり、東には別棟の絵画館が1756年に建てられた。建物は六段のテラスの上に建ち、その下には大噴水があり、世にいうフリードリヒ・ロココの粋を尽くしたお庭御殿であった。
 サンスーシ宮殿の内装は、はじめヨーハン=アウグスト=ナールが担当したが、1746年の完成前に王と意見が合わなかったのか姿を消し、ホッペンハウプト兄弟が引き継いだ。フリードリヒがフルートを演奏した音楽室などの内装や、家具、馬車、ソリなどもデザインした。フリードリヒ・ロココと言われるように、サンスーシ宮殿は建物、内装、庭園一体となったロココ美術の粋となっている。
(引用)ラインベルクの丘に建てられた離宮はサンスーシ(無憂宮)と名付けられ、1747年、二百名の客を招いて落成式が催された。新しい城の入口にはサンスーシの金文字が掲げられたのである。城は王自身のアイディアに従いクノーベルスドルフによって設計された。……美術の粋を尽くしたこのお庭御殿とその装飾にフリードリヒは出費を惜しまなかった。その治世の間に王がこの離宮のためにしつらえさせた古代や現代の彫刻は、その数五千と言われている。絵画も蒐集された。王が愛好したワトーなどのフランス絵画だけでなく、ルーベンスやヴァン=ダイク、ヴァン=デア=ヴェルフなどのネーデルラント絵画や、コレッジョ、レニ、ヴェロネーゼからラファエロ、レオナルド、ティツィアーノなどの逸品も含まれていた。美術品だけではない。小さいが選り抜きの図書を集めた図書館も用意され、フランスの詩人や哲学者たちの著作や、フランス語に訳された古代の著作の、いわゆる大名版が収められた。この図書館と書斎はあのなつかしいラインスベルク宮のものにならって設計され、壁面や装飾にも銀、リラ、バラ、くすんだ緑、青などの明るい色彩が取り入れられた。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書 p.117

サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世

 フリードリヒ2世はこのサンスーシで、王とか君主とか軍司令官という意識を捨て、単に一人の人間として暮らす事を望んだ。そして、肩の凝らない、気に入った人物だけを身辺に招いた。女性は滅多に招かれることがなかったので、姉のヴィルヘルミーネはここを修道院と呼んだ。フリードリヒは夏の間はここで政務を執り、侍従と秘書と朗読係だけを身辺に置いた。
 食卓に招いたのはヴォルテールを初め、医者で『人間機械論』を書いた唯物論哲学者のド=ラ=メトリ(この人はトリュフを食べ過ぎて死んだ)、世界旅行家のダルジャンヌ侯、アカデミー総裁のモーペルテュイ、イギリス人カイト兄弟など異色の人々が多かった。
 またたびたび音楽会が開かれ、フリードリヒは自ら作曲したフルートの曲を演奏した。その腕前は当時の記録をみても、国王へのお世辞ではなく、正確で楽しい演奏だったという。またこの音楽室は、ロココ様式の室内装飾が施されており、現在も見ることができる。

世界遺産 ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群

 ドイツの首都ベルリンとその郊外のポツダムには、18~19世紀につくられた公園や宮殿が多数あり、1990年に世界遺産に登録され、92年、99年に範囲が拡張された。その中心が18世紀のプロイセンのフリードリヒ2世(大王)が建造したロココ様式の離宮であるサンスーシ宮殿である。その他、16世紀末に建てられたシャルロッテンブルグ宮殿などの多くの史跡があり、「プロイセンのヴェルサイユ」ともいわれている。 → ユネスコ世界遺産センターホームページ ユネスコNHKビデオ サンスーシ宮殿

Episode フリードリヒ大王と水車小屋の主

 フリードリヒ2世のサン=スーシ宮殿には次のような話がある。フリードリヒ2世はベルリンから歩いて8時間の所にサン=スーシ宮殿を造り、そこで静かな思索の日々を送ろうとした。その隣に水車小屋あって、その音が王の思索を邪魔していたので、あるとき主の粉屋を召し出して「お前も分かっていると思うが」と切り出した。
(引用)「我々両人が隣りあって暮らしてゆくことはできない。いずれか一方が譲らねばならぬ。おまえはこの宮殿をいくらで買ってくれるか。」――――粉屋が言った。「お隣の王様、王様はいくらの値をおつけになりますか。」王は答えられた。「偏屈者め、余の宮殿を買い取れるほどの金をおまえは持っているのか。おまえの方はあの水車小屋をいくらの値をつけるのだ。」粉屋が答えた。「私の水車小屋を買い取れるほどのお金は王様もお持ちではありません。あれは売り物ではございませんので。」王は一度ならず二度三度と売ってくれるように要求されたが、この隣人は、「あれは売り物ではございません」という同じ言葉を繰り返すだけであった。「私は自分が生まれたところで死にとうございます。あの水車小屋を自分のおやたちから受け継いだとおりに、私の子孫に受け継がせたいのです。その上に宿る先祖の霊の祝福とともに。」すると王の言葉はにわかに険しさをを帯びてきた。「余がくどくどと言わねばならぬ必要などまったくないことも存じておろうな。おまえの水車小屋を査定させたうえ、取り壊させることにする。そのあとで金を受け取ろうと受け取るまいと、勝手にするがよい。」これを聞いて粉屋はいささかも動ぜず、にっこり笑ってこう答えた。「ベルリンに王立裁判所がありさえしなければようございますが、王様。」つまり彼は法廷で裁いてもらうというのである。王はただしい君主で、そして格別寛大なお方だったので、勇敢で率直な言葉がお気にめさぬはずはなく、この言葉をよしとされた。王はこれ以降、粉屋にかまわれることはなく、ずっと平和な善隣関係を保たれたのであった。ヘーベル編/木下康光訳『ドイツ炉辺ばなし集』1986 岩波文庫 p.140-142
 編者はこの話を「読者の皆さんは、この粉屋のような隣人には多少なりとも尊敬の念を禁じえないことであろう。そして隣人としてのこのような君主には、さらに大きな尊敬の念を抱かれるであろう。」と結んでいる。『ドイツ炉辺ばなし集』は1808~1815,19年にヘーベルがライン地方の民間説話を集めたも。