オーストリア継承戦争
1740~48年、ハプスブルク家の家督継承をめぐって起こった。オーストリアとプロイセンの対立を軸として、イギリスが前者を、フランス・スペインなどが後者を支援した絶対王政国家間の領土をめぐる戦争であるが、並行してイギリスとフランスの植民地戦争がアメリカ新大陸とインドで起こっている。
1740年~48年、オーストリアとプロイセンの対立から、ヨーロッパ諸国が二つの陣営に分かれて行った戦争。戦争の原因(開戦の口実)となったのは、17世紀のルイ14世が盛んに対外戦争をしかけたときと同じく、王位継承の問題であったが、次第にそれにとどまらないヨーロッパ諸国を二分する国際的な戦争に転化した。
二陣営の中で対立軸の中心となったのはオーストリア領であったシュレジェンをプロイセンが奪取しようとした領土問題でもあった。シュレジェンをめぐる両国の戦闘は3度行われており、シュレジェン戦争ともいわれるが、そのうちの第1次と第2次がオーストリア継承戦争の時に起こっており、第3次が七年戦争の時のことである。
ヨーロッパ諸国はこの原則をいったんは認めたが、カール6世が没すると、まずプロイセン王国のフリードリヒ2世がマリア=テレジアの相続の条件としてシュレジェン(機業・鉱産業が盛ん)の割譲を主張した。神聖ローマ帝国内の有力諸侯であるバイエルン公・ザクセン選帝侯もハプスブルク家に代わって神聖ローマ皇帝に選出されることを目指した。
オーストリアは外交攻勢に出て、プロイセンの隣が王家の出身国のハノーヴァーであったイギリスのジョージ2世と、同じくプロイセンの強大化を警戒してていたロシアをオーストリア側につけることに成功し、プロイセンのシュレジェン占領は反プロイセン同盟の結成をもたらす結果となった。1741年4月10日、モルヴィッツで戦闘では、オーストリア騎兵隊の攻撃でプロイセン軍が大混乱に陥り、フリードリヒ自身が乱戦に突入して軍の立て直しを図るも失敗し、やむなく戦場から逃れたが、老練なシュヴェリーン元帥の指揮で持ち直し、最終的にはプロイセン軍が勝利した。これを見たフランスはプロイセンに同調、ザクセン、バイエルンとの連合軍はオーストリア領ベーメン(ボヘミア)に侵入してプラハを占領、プロイセンはメーレン(モラヴィア)に侵出した。1742年1月24日、プロイセンとフランス、ザクセンが後押ししたバイエルン公選帝侯のヴィッテルスバッハ家カールが神聖ローマ皇帝に選出されカール7世となった。これで実に300年ぶりにハプスブルク朝が一旦途切れたことになる。オーストリアはやむなく6月11日、ブレスラウでの和議に応じ、シュレジェンのプロイセンへの割譲を認めた。
第2次シュレジェン戦争 1744年8月、オーストリアはマリア=テレジアの夫フランツ=シュテファンの領有していたロートリンゲン(ポーランド継承戦争でフランスに割譲していた)に侵入、一方でプロイセン軍はオーストリア領ベーメンに侵入した。オーストリア軍はロートリンゲンの兵を引いてベーメンに急行して抗戦、またカトリックの多いベーメンの住民は友好的ではなかったので、プロイセン軍は苦戦を強いられた。そんな時、45年1月にプロイセンが支持していたヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝カール7世が病死し、ハプスブルク家が皇帝に戻る動きが出たため、プロイセンは窮地に陥った。しかし、プロイセン軍をベーメンから撤退させたオーストリア軍は勝利によって深追いし、プロイセン軍の罠にはまってしまった。1745年6月4日、ホーエンフリーとベルクの闘いで、5万8千のプロイセン軍が6万8千のオーストリア軍を破ったのだった。オーストリア側についていたザクセン軍に対してもドレスデン近郊で勝利し、12月25日、ドレスデンの和約を締結、オーストリアはプロイセンのシュレージェン領有を再び認め、プロイセンはオーストリアのフランツ(マリア=テレジアの夫)に、皇帝選挙で賛成票を投じることなどを約束した。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書などによって構成>
アーヘンの和約 フリードリヒ2世が再び出兵して戦闘を再開したのは、イギリス軍のオーストリア支援を警戒し、先手をうつものであったが、アメリカ新大陸の植民地では、フランス・スペインと戦っていたイギリスが有利に戦いを進めたため、ヨーロッパ大陸におけるフランスのプロイセン支援も動きが鈍くなった。またオーストリアもイギリスの直接支援はなかったものの、経済支援が続いたので次第に盛り返した。結局、オーストリア継承戦争は、1748年10月、オーストリア、プロイセン、イギリス、フランス、スペイン間の国際条約としてアーヘンの和約が締結され終戦となった。
シュレージェン領有によってプロイセンは150万の人口と年間400万ターラーの税収を得ることとなり、国土の広さは従来のプロイセンの3分の1にあたる広さを獲得した。しかし同時に2万の兵と500万ターラーの鮮卑を失いった。国際的信用はそのために落ちこみ、友好国フランスとの関係を修復するなどの課題が残った。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書 p.117>
オーストリア オーストリアはシュレジェンをプロイセンに割譲するかわりに、マリア=テレジアのそれ以外のハプスブルク家領の相続は認められた。神聖ローマ皇帝には改めてマリア=テレジアの夫トスカーナ大公(ロートリンゲン公であったがポーランド継承戦争の時トスカーナ大公に転じていた)が選出され、フランツ1世となった。
注意 マリア=テレジアは皇帝にはなっていない マリア=テレジアはハプスブルク家の家督を相続し、オーストリア大公ではあったが、女性であることから神聖ローマ皇帝にはなっていない。皇帝はその夫のフランツ1世であり、彼女はあくまで皇帝の妃、つまり皇妃である。しかし、夫に代わって政治の実権を握っていた。
マリア=テレジアは、プロイセンに対する復讐とシュレジェンの奪還に燃え、それまで一貫していたフランスのブルボン朝との対立関係を清算して提携することをはかり、1756年に外交革命に成功し、次の七年戦争へと展開する。
フランス フランスのルイ15世は長く続くハプルブルク家とのヨーロッパの覇権をめぐる争いがあるため、反ハプスブルクの立場からプロイセン側に建った。またイギリスとの植民地戦争を続けているため、イギリスがプロイセンを、ハノーヴァーを脅かす存在とみてオーストリア側につくと、フランスはプロイセンを支援した。しかし、実際に参戦して遠くベーメンに出兵するなどプロイセンに協力したが、その講和条約であるアーヘンの和約ではほとんど何も得るところがなく〝講和のようにばからしい〟という流行語だけをおのこした。
二陣営の中で対立軸の中心となったのはオーストリア領であったシュレジェンをプロイセンが奪取しようとした領土問題でもあった。シュレジェンをめぐる両国の戦闘は3度行われており、シュレジェン戦争ともいわれるが、そのうちの第1次と第2次がオーストリア継承戦争の時に起こっており、第3次が七年戦争の時のことである。
ハプスブルク家の家督継承問題
1713年、オーストリアの神聖ローマ皇帝・カール6世は、オーストリア=ハプスブルク家の家督継承の原則としてプラグマティッシェ=ザンクチオン(重要な国事に関する君主の定めた「国事詔書」、内容的には「家督相続法」)を定めた。それにはハプスブルク家の領土の不可分と、男子のいない場合の女性の家督相続を認め、カール6世の次の家督を長女マリア=テレジアに継承させることを可能とした。ヨーロッパ諸国はこの原則をいったんは認めたが、カール6世が没すると、まずプロイセン王国のフリードリヒ2世がマリア=テレジアの相続の条件としてシュレジェン(機業・鉱産業が盛ん)の割譲を主張した。神聖ローマ帝国内の有力諸侯であるバイエルン公・ザクセン選帝侯もハプスブルク家に代わって神聖ローマ皇帝に選出されることを目指した。
対立関係
この機会にオーストリア=ハプスブルク家の弱体化をねらうフランスのブルボン朝ルイ15世は、プロイセン・バイエルンなどに同調し、反ハプスブルク家の立場から参戦した。オーストリアは植民地でフランス・スペインと対立しているイギリス、プロイセンの強大化を警戒するロシアの支援を受けた。経緯
第1次シュレジェン戦争 1740年12月16日、戦争を仕掛けたフリードリヒ2世はオーストリア領のシュレジェンに侵入して戦闘が始まった。冬季の進軍は困難であったが、オーストリア軍の貧弱な防衛と、シュレジェン地方の住民の大半がプロテスタントで、ハプスブルク家のカトリック支配から解放されることに期待してプロイセン軍を歓迎したこともあって、1741年には中心都市ブレスラウ(現在のヴロスラウ)を占領することができた。オーストリアは外交攻勢に出て、プロイセンの隣が王家の出身国のハノーヴァーであったイギリスのジョージ2世と、同じくプロイセンの強大化を警戒してていたロシアをオーストリア側につけることに成功し、プロイセンのシュレジェン占領は反プロイセン同盟の結成をもたらす結果となった。1741年4月10日、モルヴィッツで戦闘では、オーストリア騎兵隊の攻撃でプロイセン軍が大混乱に陥り、フリードリヒ自身が乱戦に突入して軍の立て直しを図るも失敗し、やむなく戦場から逃れたが、老練なシュヴェリーン元帥の指揮で持ち直し、最終的にはプロイセン軍が勝利した。これを見たフランスはプロイセンに同調、ザクセン、バイエルンとの連合軍はオーストリア領ベーメン(ボヘミア)に侵入してプラハを占領、プロイセンはメーレン(モラヴィア)に侵出した。1742年1月24日、プロイセンとフランス、ザクセンが後押ししたバイエルン公選帝侯のヴィッテルスバッハ家カールが神聖ローマ皇帝に選出されカール7世となった。これで実に300年ぶりにハプスブルク朝が一旦途切れたことになる。オーストリアはやむなく6月11日、ブレスラウでの和議に応じ、シュレジェンのプロイセンへの割譲を認めた。
第2次シュレジェン戦争 1744年8月、オーストリアはマリア=テレジアの夫フランツ=シュテファンの領有していたロートリンゲン(ポーランド継承戦争でフランスに割譲していた)に侵入、一方でプロイセン軍はオーストリア領ベーメンに侵入した。オーストリア軍はロートリンゲンの兵を引いてベーメンに急行して抗戦、またカトリックの多いベーメンの住民は友好的ではなかったので、プロイセン軍は苦戦を強いられた。そんな時、45年1月にプロイセンが支持していたヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝カール7世が病死し、ハプスブルク家が皇帝に戻る動きが出たため、プロイセンは窮地に陥った。しかし、プロイセン軍をベーメンから撤退させたオーストリア軍は勝利によって深追いし、プロイセン軍の罠にはまってしまった。1745年6月4日、ホーエンフリーとベルクの闘いで、5万8千のプロイセン軍が6万8千のオーストリア軍を破ったのだった。オーストリア側についていたザクセン軍に対してもドレスデン近郊で勝利し、12月25日、ドレスデンの和約を締結、オーストリアはプロイセンのシュレージェン領有を再び認め、プロイセンはオーストリアのフランツ(マリア=テレジアの夫)に、皇帝選挙で賛成票を投じることなどを約束した。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書などによって構成>
アーヘンの和約 フリードリヒ2世が再び出兵して戦闘を再開したのは、イギリス軍のオーストリア支援を警戒し、先手をうつものであったが、アメリカ新大陸の植民地では、フランス・スペインと戦っていたイギリスが有利に戦いを進めたため、ヨーロッパ大陸におけるフランスのプロイセン支援も動きが鈍くなった。またオーストリアもイギリスの直接支援はなかったものの、経済支援が続いたので次第に盛り返した。結局、オーストリア継承戦争は、1748年10月、オーストリア、プロイセン、イギリス、フランス、スペイン間の国際条約としてアーヘンの和約が締結され終戦となった。
植民地戦争との連動
オーストリア継承戦争と並行して、イギリスは、スペインと西インド諸島でジェンキンズの耳戦争、フランスとは北米大陸でのジョージ王戦争とインドでのカーナティック戦争を展開し、戦いを有利に進めていた。講和と戦後の情勢
プロイセン ホーエンツォレルン家のプロイセンは1701年にプロイセン王国に昇格してから、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世のもとで、ユンカー階級を基盤とした軍国主義体制強化を進め、フリードリヒ2世(大王)は啓蒙専制君主として振る舞いながらヨーロッパ強国の一員となる機会を狙っていた。ハプスブルク家の継承問題はその好機であったが、当時はまだ強国とはみなされていなかったプロイセンは苦戦を強いられたものの、節目の戦闘で軍隊の訓練度の高さを発揮し、オーストリア軍を撃破し、広大なシュレジェンを獲得したことは、大国化への第一歩を踏み出したということがいえる。シュレージェン領有によってプロイセンは150万の人口と年間400万ターラーの税収を得ることとなり、国土の広さは従来のプロイセンの3分の1にあたる広さを獲得した。しかし同時に2万の兵と500万ターラーの鮮卑を失いった。国際的信用はそのために落ちこみ、友好国フランスとの関係を修復するなどの課題が残った。<飯塚信雄『フリードリヒ大王』1997 中公新書 p.117>
オーストリア オーストリアはシュレジェンをプロイセンに割譲するかわりに、マリア=テレジアのそれ以外のハプスブルク家領の相続は認められた。神聖ローマ皇帝には改めてマリア=テレジアの夫トスカーナ大公(ロートリンゲン公であったがポーランド継承戦争の時トスカーナ大公に転じていた)が選出され、フランツ1世となった。
注意 マリア=テレジアは皇帝にはなっていない マリア=テレジアはハプスブルク家の家督を相続し、オーストリア大公ではあったが、女性であることから神聖ローマ皇帝にはなっていない。皇帝はその夫のフランツ1世であり、彼女はあくまで皇帝の妃、つまり皇妃である。しかし、夫に代わって政治の実権を握っていた。
マリア=テレジアは、プロイセンに対する復讐とシュレジェンの奪還に燃え、それまで一貫していたフランスのブルボン朝との対立関係を清算して提携することをはかり、1756年に外交革命に成功し、次の七年戦争へと展開する。
フランス フランスのルイ15世は長く続くハプルブルク家とのヨーロッパの覇権をめぐる争いがあるため、反ハプスブルクの立場からプロイセン側に建った。またイギリスとの植民地戦争を続けているため、イギリスがプロイセンを、ハノーヴァーを脅かす存在とみてオーストリア側につくと、フランスはプロイセンを支援した。しかし、実際に参戦して遠くベーメンに出兵するなどプロイセンに協力したが、その講和条約であるアーヘンの和約ではほとんど何も得るところがなく〝講和のようにばからしい〟という流行語だけをおのこした。