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ロココ美術

18世紀のフランスの宮廷を中心に展開された、繊細優美な美術様式。建築ではサンスーシ宮殿、絵画ではワトー、ブーシェなどの作品が挙げられる。美術の潮流としては、17世紀のバロック様式の反動から生まれ、18世紀末には新古典主義の台頭によって下火になった。

 おおよそ18世紀前半にあたるが、厳密には1710年代から60年代までの、特にフランスにおける美術に見られる様式をロココ様式という。ただし、現在ではこの時期の文化全体を「ロココ的な文化」などと称している。その画期となったのは、1715年の太陽王ルイ14世の死去であり、それとともにバロック美術といわれる建築・庭園・美術などでの絶対王権を賛美するような豪壮華麗な文化に対する反動として、繊細で優美な表現を特徴とする新しい様式が生まれた。次に即位したルイ15世はわずか5歳だったのでオルレアン公フリップが摂政となり、1723年に親政を開始、ロココ様式の美術はその宮廷で流行した。
ロココとは、バロック庭園の人工洞窟に付された貝殻などをはめこんだ装飾であるロカイユに由来しており、19世紀の新古典主義の時代にルイ15世時代の軟弱な文化という蔑称として使われ始めたが、現代では繊細優美だけではなく、軽妙洒脱さ、自由奔放さ、親しみやすい日常性と感覚性という新しさが評価されている。<高階秀爾『カラー版西洋美術史』1990 美術出版社 p.114->
ロココ調のイス

ロココ調のイス

繊細で優美
(引用)「ロココ」という言葉から、皆さんは、まず、何を連想なさるだろうか。やわらかな中間色の花模様で飾られた、猫脚の華麗な椅子、というものがおそらくそのひとつであろう。
 ロココはたしかに18世紀のフランスを中心とする装飾美術様式の名称だった。机や椅子の脚に見られるように、曲線をふんだんに使った、きわめて装飾性のつよい美術様式である。だが、やがて、優雅で繊細で軽快な、遊びを大切にする同時代の美的生活様式もロココの名で呼ばれるようになった。この時代に、室内装飾も料理も、恋愛もマナーも、すべてが芸術となったのである。<飯塚信雄『ロココの時代-官能の十八世紀』1986 新潮選書 p.12>

建築

サンスーシ宮殿内部

サンスーシ宮殿内部

ロココ様式の建築は、後期バロック様式と密接に関係しながらフランスに多くの作例があるが、むしろ同時代のドイツやオーストリアで発展した。その代表的なものが、プロイセンのフリードリヒ2世がベルリン郊外のポツダムに建造したサンスーシ宮殿である。
 またオーストリアのウィーンにハプスブルク家の宮殿として建造されたシェーンブルン宮殿は外見はバロック様式であるが内部の装飾はロココ様式をふんだんに採り入れている。

絵画

 ロココ様式の美術もフランスで発展した。その最初の作家がワトーで『愛の島の巡礼』(シテール島への旅路)などで、神話的な題材ながら自然の中での若人たちの宴を描いた。ワトーの画風を継承し、ロココ絵画の代表的作家となったのがブーシェで、彼はルイ15世の宮廷画家として活躍、絵画だけでなく建築や室内装飾でも才能を発揮したが、特にルイ15世の愛妾であったポンパドゥール夫人の庇護を受け、その肖像を数点作製した。その肖像には、繊細・優美な貴族趣味が溢れており、ロココ絵画の特徴が良くそなわっている。ブーシェの弟子であったフラゴナールは、宮廷の女性の自由な振る舞いを美しい自然の中で描き、後のロマン派への橋渡しとなっていく。また肖像画に優れたド=ラトゥールはポンパドゥール夫人の肖像をパステル画で残している。
ブーシェ画 ポンパドゥール夫人

ブーシェ画 ポンパドゥール夫人

フラゴナール画 ブランコ

フラゴナール画 ブランコ


ロココの時代

 ロココの時代とは、通常は1715年のルイ14世の死から、1774年のルイ15世の死までを言う。その芽生えはすでにルイ14世の治世の晩年に見られ、その死から摂政オルレアン公の治世が行われた1723年まで(摂政時代)をロココ本来の姿とみる美術史家もいる。一般に1723年のルイ5世の治世から1745年のポンパドゥール侯爵夫人の公式愛妾認知を経て1750年頃までをロココの世紀とすることが多い。<飯塚信雄『同上書』 p.28>

ロココの終わり

 1774年以降のルイ16世の治世、マリー=アントワネットの時代を後期ロココの時代とみる見方もあるが、それには問題がある。なぜなら1730年代の古代ギリシア・ローマの発掘を機会に高まりだした新古典主義の傾向は、1750年ごろからますますその勢いを盛んにし、1760年代には本来のロココを破滅の淵に追いこみだしたからである。
 1764年のポンパドゥール夫人の死によって外濠を埋められ、1770年に宮廷筆頭画家のブーシェの死によって第二の濠を埋められたロココは、新たに公式愛妾となったデュバリー伯爵夫人と画家フラゴナールによってその最後の砦を護られることになったが、1774年、ロココの王様と呼ばれたルイ15世の死によってその本来の時代を閉じることになった。
 しかし、その後のルイ16世の治世は、美術様式では曲線を自由に用い、不均斉で軽やかな本来のロココから、直線の支配する単純なデザインが家具や室内で用いられるようになるという変化が急速に起こった一方で、マリー=アントワネットの衣装に見られるようにロココの優雅な装飾性をますますエスカレートさせている。つまり、ルイ16世の宮廷では、ロココの原理と新興の新古典主義という相反する二つの原理が共存する奇妙な時代と見ることができ、それを「後期ロココ」とするのも不適当とは言えない。<飯塚信雄『同上書』 p.30,84>

遅れてきたロココの女王 マリー=アントワネット

 一般に、ロココ美術の美術の特質を表現した言葉が「繊細優美」である。繊細優美とは、どのようなものなのだろうか。ステファン=ツヴァイクはマリー・アントワネットを「ロココの王妃」と言っている。その説明を見てみよう。
(引用)マリー・アントワネットはその時代精神を承認することによってまさに、18世紀の典型的な代表者になったのである。古代文化を盛りそだて、こよなく優美に開花したロココ、繊細、怠惰な手、遊びほうけ、甘やかされた精神の世紀であるロココは、衰退のまえにひとつの姿をとってあらわれようとしたのである。いかなる王、いかなる男性も、歴史絵巻のなかのこの女性の世紀を代表することはできなかったろう、一女性の、一王妃の姿にのみ、この世紀は具象的に反映し得たのであって、マリー・アントワネットがこのロココ王妃の典型であったのだ。のんきなことこのうえなく、浪費にかけては足もとに及ぶものとてなく、優雅、嬌艶な女王のうちでもぬきんでて優雅であり意識的に優雅であり、嬌艶であった彼女は18世紀の礼節と芸術的生活様式とを自分自身のうちに記録として明瞭にしかも忘れがたい形で表現したのである。・・・<ステファン=ツヴァイク『マリー・アントワネットⅠ』1932 全集13 藤本敦雄/森川俊夫訳 みすず書房 p.158>
 しかし「ロココの女王」マリー=アントワネットは、いわば遅れて登場し、そして最後のロココ人だった。ロココの時代はすでに終わっていたのだが、彼女が断頭台の露と消えたことで、その残り火も消えたと言えるだろう。

参考 よみがえるロココ

 飯塚信雄氏は『ロココの時代』(1986)でロココの広がりを美術におけるブーシェの活動だけでなく、ドイツのサロン文学者ヴィーラント、諸国を遍歴し稀代のプレイボーイとして知られるカサノヴァなどをロココ人として取り上げ、その自由な生き方を賞賛している。飯塚氏に言わせれば、形式化してしまったバロックを打破して生まれたロココの自由な精神が、19世紀には抹殺され、近代化と言いながら、社会軌範や道徳で人間が縛りつけられてしまった窮屈な時代になってしまった、と見ている。
 『ロココの時代』が発表されたのは1980年代であるが、飯塚氏は、現代はロココの精神が見直されるべきであるという。「よみがえるロココ」は、官能の解放、集団よりも個、快適な生活の重視、遊びの復権、女性の自立、重厚よりも軽快、本質より装飾、と言ったイメージで捉えられよう。飯塚氏のロココを見直そう、という発言からだいぶ時間が経ってしまったが、再び取り上げられても良いように思われる。