ハーグリーヴズ
イギリス産業革命期の発明家で、1764年にジェニー(多軸)紡績機を発明し、紡績技術を大きく向上させた。
1764年ごろ、イギリス産業革命の実質的な始まりを示す、綿工業の紡績工程での中での画期的な発明であるジェニー紡績機(多軸紡績機ともいう)を作った人物である。
(引用)変革の最も急激であったのは織物工業においてであった。すでに、紡績業では重要な諸変化が起こっており、永いあいだ織布業の発展を阻止してきた糸不足の問題は解決されていた。すなわちまず、1764年から1767年に至るあいだのある時、ブラックバーンの大工であったジェイムズ・ハーグリーブズが、ジェニー(jenny)と呼ばれる簡単な手動機械を発明した。この機械によって、一人の女が、最初は六本ないし七本の、後には八〇本もの糸を一度に紡ぐことができた。ハーグリーブズにとっては不幸なことであったが、1770年に特許をとる前に彼が多くのジェニーを制作し販売していたため、後年の法廷で、この事が理由となって彼の権利は無効の判決をうけた。このジェニーは、最初はノッティンガムで、のちにはランカシャーで熱狂的に採用された。<アシュトン『産業革命』岩波文庫 p.83>
ジェニー紡績機
1764年、ハーグリーヴズが考案した同時に複数の糸を紡ぐ紡績機。紡績能力を飛躍的に増大させた。
ハーグリーヴズのジェニー紡績機
多軸式の紡績機はさらに改良され、紡錘(糸の先につけるおもり)はやがて16本に増え、さらに最終的には80本にまで増える。このため綿糸生産が急増したが、こんどは織機の能力が追いつかなくなり、その改良を促すことになった。
ただ、ジェニー紡績機は動力は弾み車を使うものの、人力であったので糸そのものの強さが不足し、切れやすいという欠点があり、紡績機はより強い糸を作ることが課題となった。それを解決したのが、アークライトの水力紡績機であった。
参考 エンゲルスの語るジェニー紡績機
ロンドンやマンチェスターを徹底して見て回り、資本主義社会の病根を鋭く見つめた若き日のエンゲルスがその観察をまとめた『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)のはじめのほうで次のように指摘している。(引用)イングランドの労働者のそれまでの状態に根本的な変化をもたらした最初の発明が、北ランカシャ、ブラックバーン近郊のスタンドヒルに住む織工ジェイムズ・ハーグリーヴズのジェニー紡績機(1764年)であった。この機械はのちミュール紡績機の素朴な原型で、手動式であった。だが通常の手紡車のように一つの紡錘ではなく、16から18の紡錘がついており、わずかひとりの労働者で運転された。これにより、従来よりもはるかに多くの糸を供給できるようになった。以前は常時三人の紡ぎ女を雇っていても糸が間に合わず、織工はしばしば糸のできあがりをまたなかければならなかった。だが、いまや糸は手もちの労働者では織りきれないほどたくさんあった。織物需要はもともとふえてはいたのだが、新しい機械による生産コストの低減で価格が安くなったため、需要はますます増加した。より多くの織工が必要となり、織賃は上昇した。いまや織機でより多く稼げたので、織工はしだいに畑仕事を離れ、織物だけに専念するようになった。・・・このようにして、耕作織工の階級は次第に姿を消し、たんなる織工という新興階級に化していった。この新興階級は労賃だけで生活し、なんの財産も、小作地という疑似財産すらもなく、こうしてプロレタリアとなった。<エンゲルス/一條和生・杉山忠平訳『イギリスにおける労働者階級の状態』上 岩波文庫 p.30-32>つまり、ジェニー紡績機の発明によって大量の綿糸がつくられるようになり、それによって農民が片手間にやっていた織物が、織物工場での織工の賃金労働で行われるようになり、プロレタリアが出現することになった。またつづけて、それまで紡績と織布が同じ屋根の下で行われていたのが、ジェニー紡績機の出現によって、紡績と織布が完全に分離したと指摘している。これは資本主義経済の一つの特質である分業の開始でもあった。