機械うちこわし運動/ラダイト運動
産業革命期に起こった、熟練工による機械打ちこわし。1810年代に最高潮となるが次第に組織的な労働運動に転化していく。
産業革命で繊維工業の機械が発明され使用されるようになると、多くの手工業職人は失業しなければならなかった。それへの反発から、産業革命の展開中から、機械破壊運動が起こっている。その指導者ネッド・ラッドの名前から、その運動はラダイト運動と言われているが、ラッドは実在の人物であるかどうか判らない。
1812年、最高潮に
早くも1779年、当時イギリス最大の紡績工場であったアークライトのランカシャー工場が破壊され、1810年代には最高潮に達する。特に1812年には、ナポレオン戦争に加えて、アメリカとのアメリカ=イギリス戦争(1812年戦争)が始まり、ヨーロッパ大陸だけでなくアメリカとの貿易が減少したことでイギリス経済が悪化、小麦価格の高騰したため工業地域では機械打ち壊し運動(ラダイト運動)が最高潮に達した。 これは、産業革命による機械の出現が手工業の職人や、農村の家内手工業の収入を奪っているという現実があったのであり、機械の導入は国民生活の向上に寄与していなかったから出る。産業革命の発明家ハーグリーヴズ、アークライト、カートライトなどはいずれも工場も住宅も襲撃され、破壊されている。しかしこの運動は、怒りの矛先を機械に向けるだけであったため長続きせず、政府の取り締まりをうけて下火になる。次に労働者の貧困と人権での戦いは労働組合運動という組織的な運動になっていく。参考 ラダイト・チャーティスト・労働組合
(引用)1816年には東部諸州一帯で、1822年にはイーストアングリアで、1830年にはケントとドーセット、サマセット、リンカーンのあいだのいたるところで、……人びとは最低生活を要求して、脱穀機がうちこわされ、夜に干し草の山が放火された。工業地域や都市では、1815年以後は経済的社会的不安はたいてい特定の政治イデオロギーや綱領――急進民主主義的、あるいは「協同組合的」(今日なら社会主義的といえるような)でさえある――と結びついていた。もっとも1811年から13年の最初の大きな不穏な動きにおいては、東ミドランズやヨークシャのラダイトは、政治改革や革命という特定の綱領なしに、機械をうちこわしたのだが。政治煽動と強調する運動の局面と、労働組合主義の煽動を強調する局面とは、交互にいれかわる傾向があり、ふつう前者がはるかに大衆的であった。1815~19年、1829~32年、とりわけチャーティスト運動の時代(1838~48年)には政治が支配的であり、1820年代はじめと1833~8年には産業組織が支配的だった。しかし1830年ごろからこれらの運動はすべて、いっそう自覚的になり、特徴的にプロレタリア的となった。1829年から35年のあいだの運動のなかから、「一般労働組合」およびその最終的な武器で政治目的にも用いうる「ゼネラル・ストライキ」という考え方があらわれてきた。<ホブズボーム/浜林正夫他訳『産業と帝国』1984 未来社 p.113>