最高存在の祭典
1794年6月、ロベスピエールが主催して挙行したフランス革命を祝う市民祭典。無神論とキリスト教盲信をいずれも否定し、人智を超えた神の存在と革命の成功と結びつけて、ロベスピエール自身を神格化した。画家ダヴィドが立案し、革命期最大の革命祭典となったが、同時にロベスピエールの独裁に対する非難が始まり、早くも翌7月末にクーデタが起こってロベスピエールは失脚し、殺害されることとなった。
フランス革命の末期、ジャコバン派独裁を主導したロベスピエールが構想し、画家ダヴィドがその演出にあたって、1794年6月8日に挙行された、革命の理念を「最高存在」として神格化し国民で祝賀する祭典。フランス革命期間中の最大の革命祭典となったが、その翌月、ロベスピエールはテルミドールのクーデタで失脚した。
この祭典を強行したことでロベスピエールの独裁に対する反発が強まり、50日後のテルミドールのクーデタでの失脚となる。

最高存在の祭典 Wikimedia Commons
演説の最後にロベスピエールは、「フランス人民は最高存在の実在と霊魂の不滅を承認する」ことを第1条とし、「人間に神の観念とその存在の尊厳を思い出させることを目的とする祭典を設ける」ことを第4条とした法の制定を提案した。それとは別に、フランス共和国は1789年7月14日、1792年8月10日、1793年1月21日、1793年5月31日を毎年祝うこととする」(第6条)が定められた。
この国民庭園でのセレモニーが終わると、参加者は男女別に二列になって「自由の女神」が待つレユニオン広場(現シャン・ド・マルス広場)に行進する。行進は幼年、青年、壮年、老年の年齢階梯代表が中心となり、彼らの間を4頭の雄牛の山車がひかれていく。レユニオン広場には「祖国の祭壇」と名付けられた巨大な山が築かれ、その頂上に「自由の木」が立っている。ダヴィドの計画書は次のようにいう。
→ 「最高存在の祭典」と「理性の崇拝」のちがいについては、理性の崇拝の項もを参照してください。
ロベスピエールが主導
それより前、左派のエベールらが進めた「理性の崇拝」を、無神論であるとして否定したロベスピエールは、革命の共和政と自由の理念を「最高存在」、つまり神として崇拝し、祭典を挙行することを国民公会に提案し、採択された。祭典はパリを中心に全国で実施された。ダヴィドの演出は古代ギリシアの祭典を模範としたものであったが、シンボルの多用、音楽、マスゲームなど、大衆動員による集団芸術の先駆といえるものであった。この祭典を強行したことでロベスピエールの独裁に対する反発が強まり、50日後のテルミドールのクーデタでの失脚となる。
(引用)6月8日、最高存在の祭典は行われた。朝8時、パリのセクションはチュイルリにむかうように要請されていた。儀式は、画家でロベスピエールの心酔者ダヴィッドによって演出された。クライマックスでは、ロベスピエールが「真理の松明(たいまつ)」を手に、「無神論」や「エゴイズム」などの偶像を燃やす。するとそのあとに「知恵」の女神があらわれる。ついで会場はシャン・ド・マルスに移される。セクションがアルファベット順に並んで進み、8頭の牛が曳く自由の凱旋車がつづく。広場の中心には「自由の木」のたつ人工の丘、その脇にはギリシア風寺院と、人民を象徴するヘラクレス像をいただく円柱。国民公会議員と市民とが讃歌をうたい、共和国への忠誠を誓う。<五十嵐武史・福井憲彦編『世界の歴史』新版21 p.340 中央公論新社>

最高存在の祭典 Wikimedia Commons
ロベスピエールの構想
1794年5月7日、すでにエベール派を粛清したロベスピエールは、国民公会で「最高存在」の崇拝を呼びかける演説を行った。その演説の冒頭で、次のように呼びかけている。(引用)市民諸君、諸国民は、また個人は繁栄のなかにあってこそ、いわば思いを凝らして陶酔を警戒し、情念を沈黙させて叡智と叡智のもたらす謙虚との声に耳をかたむけなければならない。われわれの革命の勝利の轟きの声が宇宙に響きわたるときは、したがって、フランス共和国の立法者が自らと祖国とにこれまで以上入念に心を配り、共和国の安定と至福とを支える諸原理を強固なものにせねばならないときでもある。そこで本日は、人間の幸福にとって重要な深遠なる真理についてお考えいただき、またその真理より自然に導き出される方策を提案したいと思う。・・・・<河野健二編『史料フランス革命』1989 岩波書店 p.201~>その後の長い演説で、ロベスピエールはフランス革命がめざしたことは、無神論のような破壊ではなく、道徳に基づいた新しい秩序であったこと、そのためには人間と自然を支配する最高存在への純粋な信仰をとりもどそう、ということであった。それは前年の1793年11月10日、左派のエベールらが挙行した理性の崇拝の祭典は無神論になってしまっていると批判し、革命の行き過ぎを修正して人びとの道徳心のよりどころとして「最高存在」への崇敬の念を呼び戻し、革命によって生み出された「不可分な祖国フランス共和国」への帰属する意識を高めようとしたものであった。
演説の最後にロベスピエールは、「フランス人民は最高存在の実在と霊魂の不滅を承認する」ことを第1条とし、「人間に神の観念とその存在の尊厳を思い出させることを目的とする祭典を設ける」ことを第4条とした法の制定を提案した。それとは別に、フランス共和国は1789年7月14日、1792年8月10日、1793年1月21日、1793年5月31日を毎年祝うこととする」(第6条)が定められた。
ダヴィドの演出
最高存在の祭典を演出したダヴィドの詳細な計画書が残されている。演出の基本の第一は、祭典をロベスピエールを代表とする国民公会の主催であることを際立たせ、それに軍隊に主導させてパリの全住民を動員することであった。三色旗の吹き流しをなびかせ、鐘を鳴らし、軍楽隊の太鼓を鳴り響かせ、砲兵隊の号砲が出発の時を告げる。人民が国民庭園(現在のチュイルリ広場)に集結し、国民公会メンバーが中央の階段桟敷に登壇する。議長が厳粛な祭典を執り行うことを宣言する。人民は歓喜に満ちた声で歌う。第二の基本は無神論の否定であり「有徳の共和国」信仰を聖別する儀式であった。大合唱に続いて「無神論」象徴する怪物の像が焼かれると、「叡智の女神」が姿を現し、その横に「有徳の司祭」ロベスピエールが厳かに立つ。この国民庭園でのセレモニーが終わると、参加者は男女別に二列になって「自由の女神」が待つレユニオン広場(現シャン・ド・マルス広場)に行進する。行進は幼年、青年、壮年、老年の年齢階梯代表が中心となり、彼らの間を4頭の雄牛の山車がひかれていく。レユニオン広場には「祖国の祭壇」と名付けられた巨大な山が築かれ、その頂上に「自由の木」が立っている。ダヴィドの計画書は次のようにいう。
(引用)国民の復習の念を代弁し、共和主義者たちの勇気を燃え上がらせる砲兵隊の一斉射撃が大きく響いて、栄光の日の到来を告げる。大砲の音に応じる男性と戦士の歌は勝利のさきがけである。すべてのフランス人が友愛の抱擁のなかにおのが感情を溶かし込む。彼らはもはやただ一つの声となり、その「共和国万歳!」という満場の叫びは神にまで達する。<谷川稔『十字架と三色旗』2013 岩波現代文庫 p.118>
「文化革命」の退潮
前年の「理性の崇拝」の祭典はサンキュロットを先頭にした民衆の、統制しきれない民俗的エネルギーが爆発していたが、最高存在の祭典はダヴィトのプロブラムに見られるように軍隊を動員した官制の祭典という性格が濃厚だった。たしかにそれは非キリスト教運動の頂点を示すものであったが、同時に民衆運動のエネルギーを抑制し公民道徳の秩序を方向付けようとする性格をあわせもっていた。そしてロベスピエールはこの試みに成功した。しかし、それはまた革命運動を支えていた下からのエネルギーをも収束させることになった。二ヶ月足らずのうちに訪れた彼の失脚とともに、一連の壮大な「文化革命」の波も急速に退潮し始める。<谷川稔『前掲書』p.119>→ 「最高存在の祭典」と「理性の崇拝」のちがいについては、理性の崇拝の項もを参照してください。