理性の崇拝
フランス革命のジャコバン独裁期に、エベールら左派が推進した非キリスト教運動の儀式として、1793年11月に挙行された「理性崇拝の祭典」。キリスト教など宗教崇拝を否定し、理性崇拝を歌い上げた。この動きはロベスピエールによって否定され、エベールも粛清された。
フランス革命が進行し、ジャコバン派独裁政権が成立した時期の1793年に、左派のエベールによって進められた神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。アンシャン=レジームのもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められており、特にジャコバン派の中の急進派であるエベール派がキリスト教否定の立場をとっていた。
1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教化運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者非難が進められ、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、1793年11月10日に「理性の崇拝」の祭典が強行された。
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理性崇拝の祭典 1793/11/10 Wikimedia Commons
理性崇拝の祭典は1793年11月10日、ノートルダム大聖堂の内陣中央に山(モンターニュ)がしつらえられ、その頂上に「哲学に捧ぐ(ALA PHILOSOPHIE)」という碑文をかかげたギリシア風の神殿が設けられた。四隅にはモンテスキュー、ヴォルテール、ルソー、フランクリンの胸像が建てられている。白衣の少女たちが松明で照らすうち、神殿の中から一人の美女(オペラ座の女優マイヤール)が「自由と理性の女神」に分して赤いボンネットをかぶり白いドレスに青いマントをまとい、黒檀の槍を手にして緑の玉座に着いた。次いで登場したアジテーターが「狂信はいまや正義と真理に決定的に席を譲った。今後は司教は存在せず、自然が人類に教えた神以外に神は存在しないであろう」と宣言した。続いてシェニエの詩にゴセックが作曲した讃歌が聖堂いっぱいにこだました。あとは、群集が狂喜乱舞する祝宴の場と化した。<谷川稔『十字架と三色旗』2013 岩波現代文庫 p.2>
理性崇拝の祭典は、フランス革命政府がキリスト教(のみならず宗教すべて)を否定し、神に代わって人間の理性をもっとも崇高なものとして崇拝することを宣言した儀式であった。
1793年に国民公会でカトリック暦が廃止されて革命暦(共和暦)が採用されたことで非キリスト教化運動は盛り上がり、教会の破壊や聖職者非難が進められ、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、1793年11月10日に「理性の崇拝」の祭典が強行された。
非キリスト教化運動
フランス革命での非キリスト教化運動は、国民公会でジロンド派が追放されジャコバン派が多数を占め、1793年10月5日にそれまでのキリスト教の教会行事を基にしたグレゴリウス暦にかわり、共和政の開始を起点とした革命暦が制定されたことで、93年秋から94年秋にかけて一気に進んだ。この時期、各地で教会の聖像が破壊されるイコノクラスム(聖像破壊)が行われた。現在でも、例えばルーアン大聖堂正面の聖人像は台座だけ残して十体すべて消失している。(引用)フランス革命期のイコノクラスム(聖像破壊)、非キリスト教化運動の傷跡である。200年以上たった今も修復されていない聖堂が少なくないのは、財政的な理由も考えられるが、むしろテルールへの抗議、革命の「蛮行」にたいする告発を後世に伝え続けようとするカトリック教会の意図が見え隠れする。このことは、カトリックと共和派との文化ヘゲモニーをめぐる闘いが、19世紀以降もいかに激しく展開され続けたか、そしてジャコバンの衣鉢を継ぐ諸潮流への教会の敵意がいかに根深いものであったがを物語っている。いわゆる教権主義と反教権主義の対立、あるいは、「国家の世俗性」(ライシテ)をめぐる対立である。<谷川稔『十字架と三色旗』2013 岩波現代文庫 p.2>この時期には聖像破壊だけでなく、さまざまな非キリスト教化運動が繰り広げられた。たとえば聖職者が聖職放棄や妻帯を強制され(約2万人の聖職者が聖職を放棄し、約6千人の聖職者が結婚した)、教会が閉鎖されて「理性の神殿」に転用されたり、教会の銀器や鐘が没収された。また司教がロバに後ろ向きに載せられて行進させられたり、サンキュロットたちの仮装行列(マスカレイド)が繰り広げられるなど、祝祭的に繰り広げられた。これらの運動はパリ周辺やフランス中部など、全土の約3分の2の地域では盛んに行われたが、フランス西部などカトリシズムが根強く残っている地域では抵抗運動も繰り広げられ、礼拝も非合法に続けられた。<松浦義弘『フランス革命の社会史』1997 世界史リブレット 山川出版社 p.60-62>
理性崇拝の祭典
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理性崇拝の祭典 1793/11/10 Wikimedia Commons
理性崇拝の祭典は、フランス革命政府がキリスト教(のみならず宗教すべて)を否定し、神に代わって人間の理性をもっとも崇高なものとして崇拝することを宣言した儀式であった。
ロベスピエールは理性の崇拝を批判
しかし、ロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は無神論であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判、またダントンらの右派も反対した。その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命として処刑され、理性の崇拝は廃止された。ロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。「理性の崇拝」と「最高存在の崇拝」の違い
この両者は語意や時期も近いので混同してしまうおそれがある。フランス革命中の革命祝典として並んでいるが、その性格、歴史的意義はまったく異なるので注意しよう。なお、「最高存在の祭典」の方は、最近の用語集では扱われていないが、ロベスピエールのやったこととしては欠かせないので、あわせて押さえておこう。- 「理性の崇拝」は1793年11月に、エベールによって挙行された祭典。一切の宗教的蒙昧を捨て去り、人間固有の理性をもっとも価値あるものとして崇拝しよう、という反キリスト教化運動の流れで行われた。パリのサンキュロットが多く参加し、祝祭的な盛り上がりを見せた。
- 「最高存在の祭典」は1794年6月、ロベスピエールが主催。エベールの思想を無神論として否定し、人間の徳目の源泉としての神を最高存在として崇拝し、同時に革命よって生み出された共和制を確固たるものにすることを目指した祭典。画家ダヴィドが立案し、軍隊を活用した儀式的なセレモニーとなった。