印刷 | 通常画面に戻る |

アミアンの和約

1802年、ナポレオンとイギリスとの間で締結された講和条約。17世紀末から続く両国の戦争状態を一時的に解消。ナポレオンが1804年、皇帝となったことから対立再燃。

 1802年3月に締結されたナポレオンのフランスとイギリスの間の講和条約。フランスは1798年にナポレオンがエジプト遠征を実行し、イギリスおよびオーストリアとの戦闘を再開させていた。1800年にはマレンゴの戦いでオーストリア軍を破り、翌1801年2月にオーストリアと休戦し、ライン左岸の確保(リュネヴィル条約)に成功、その後の大陸政策をロシアとの提携を基軸にしようとしたが、3月にロシアのパーヴェル1世が暗殺されたため、イギリスとの講和をはからなければならなくなった。またイギリスではピットに替わったアッディントン内閣が、王党派援助が効果がないこと、ナポレオンとの敵対のためヨーロッパ市場からしめだされていること、国内の労働運動が激化していることなどから、フランスとの講和を決意、1802年3月アミアンの和約となった。
 アミアンの和約によってイギリスはオランダ領セイロン、スペイン領トリニダードを保留し、フランスのイタリア、ライン左岸、ベルギーの領有を認めた。地中海のミノルカ島はスペインに返還された。また、アミアンの和約の成立によって、対仏大同盟(第2回)も解消された。

和約の破綻

 しかし、この和平は短期間に終わった。1804年、ナポレオンが皇帝に即位してナポレオン1世となって、同時に大陸制覇の動きを明らかにしたため、1805年に第3回対仏大同盟が結成され、英仏は再び激突してトラファルガーの海戦となる。
印 刷
印刷画面へ