ルイ=ブラン
フランスの社会主義者で二月革命で活躍。共和政政府の閣僚となり、国立作業場を設置。六月暴動が起き、政権から追われて亡命。
ルイ=ブラン Louis Blank 1811-82 は1830年、七月革命の時にパリで革命運動に加わった。七月王政期には雑誌の編集、発行を行って政府批判を繰り返しながら、社会主義へ傾斜していった。1848年の二月革命では革命の先頭に立って戦い、社会主義者として初めて臨時政府の閣僚となった。
発足したフランス第二共和政において、ルイ=ブランは労働者の救済をめざして国立作業場の設立にあたり、労働代表委員会の委員として最低賃金・労働時間の短縮などに取り組んだ。しかし、臨時政府内でブルジョワ共和派との対立が次第に深刻になり、1848年4月23日の四月普通選挙でブルジョワ共和派が多数を占めたことから、立場は危うくなっていった。
発足したフランス第二共和政において、ルイ=ブランは労働者の救済をめざして国立作業場の設立にあたり、労働代表委員会の委員として最低賃金・労働時間の短縮などに取り組んだ。しかし、臨時政府内でブルジョワ共和派との対立が次第に深刻になり、1848年4月23日の四月普通選挙でブルジョワ共和派が多数を占めたことから、立場は危うくなっていった。
六月蜂起
ブルジョワ派が多数を占めた議会が国立作業場の閉鎖を決めると、1848年6月、労働者は六月蜂起に立ち上がった。蜂起は鎮圧され、ルイ=ブランもその責任をとらされて政府を追われ、ベルギーを経てイギリスに亡命した。後に1870年、ナポレオン3世の第二帝政が崩壊した後、パリに戻り、翌年国民議会議員に選出された。パリ=コミューンには反対の立場をとった。