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六月蜂起

1848年、フランス第二共和制下で起こったブルジョワと労働者の階級闘争。軍人のカヴェニャックが戒厳令の下で鎮圧、二月革命で生まれた共和政は動揺し、ルイ=ナポレオンの第二帝政へとむかう。この蜂起は鎮圧されてしまったが、労働者階級の最初の本格的な決起とされている。

 二月革命後の、フランス第二共和政のもとで憲法を制定するための立憲議会選挙として、1848年4月に四月普通選挙が実施された。その選挙では社会主義派が多数落選して後退し、ブルジョワ穏健派や王党派が多数を占めた。それをうけてブルジョワ共和派の政府が、社会主義派が労働者救済のために立案したが財政を圧迫する存在になっていた国立作業場を閉鎖することを決定した。それを知った労働者が暴動を起こし、政府軍が出動して鎮圧した事件。

最初の労働者蜂起

 1848年6月21日夜、政府の国立作業場閉鎖に抗議し労働者デモが始まる。22日、4000人の労働者と政府(執行委員会)の交渉は物別れとなり、翌日パリ東部に労働者がバリケードを構築した。議会はカヴェニャック将軍に反乱鎮圧の全権を委任し、パリに戒厳令を布いた。カヴェニャックは徹底的な鎮圧作戦をとり、26日までの市街戦で、即時銃殺された者1500人。捕虜2万5千人は死刑になるか、アルジェリア・カイエンヌに流刑となった。ルイ=ブランは辛くも逃れてイギリスに亡命した。この暴動はブルジョアとプロレタリアの最初の大規模な階級闘争であった。

議会と労働者の対立

 4月の普通選挙で多数を占めたブルジョワ共和派は、金融資本家と産業資本家の要請を受け、不況からの脱却、信用体系の再建をまず第一に掲げた。そのためには多くの出費を伴う国立作業場は解体しなければならないと考えていた。労働者・社会主義派などの改革派は議会に対する不信を強めていった。
ポーランド独立支援 そのころフランスとの関係の深いポーランドで独立運動が激化し、改革派はその支援を決議を議会に要請した。議会がそれを拒否すると、5月15日、労働者の一団がポーランド独立支援を叫んで議場に乱入し、占拠をはかったが国民衛兵によって排除されるという事件がおこった。事件に関連してブランキやアルベール、パルベスなどの活動家が逮捕され、ルイ=ブランはイギリスに亡命した。政府はこの時の労働者の中に国立作業場の労働者が含まれていたことを理由にその閉鎖を決意した。

カヴェニャックによる大弾圧

 6月21日、公共事業相トレラは、国立作業場に登録されていた18歳から25歳の労働者全員に対し、兵役につくか、地方の土木工事につくかのいずれかを選択させる布告に署名した。22日夜、政府との折衝が決裂した労働者は、「パンか、銃弾か! 自由か、死か!」と叫んでぞくぞくとパンテオン広場に集結、23日にかけて、パリ東部に巨大なバリケードを築いた。
 翌24日、議会は執行委員会(当時の政府にあたる機関)のラマルティーヌに見切りをつけ、共和派将軍のカヴェニャックを行政長官に任命して全権を与えた。カヴェニャックは戒厳令を布いて地方から6万の部隊を集結させ、バリケードを直接砲撃するという荒っぽいやり方で26日までに蜂起を完璧に抑え込んだ。それは即時銃殺1500名、他に死者1400名、逮捕者25000人という大弾圧であった。

1848年革命の後退

 1848年、パリの二月革命で七月王政が倒されたことは、ウィーン体制化のヨーロッパに強い衝撃を与え、ドイツ連邦では三月革命といわれる自由主義と憲法制定を求める革命運動が急速に広がった。特にオーストリアではウィーン三月革命、プロイセンではベルリン三月革命によって、追い詰められたそれぞれの君主は憲法の制定や検閲の廃止などの自由主義改革を約束するという大きな成果が生まれた。 → 1848年革命
 しかし、革命の本家のフランスで六月暴動が起こり、労働者の蜂起が臨時政府によって弾圧されたことによって、ヨーロッパ全域で革命運動はいっせいに弾圧され、退潮期を迎えることとなった。同年10月から翌1849年6月頃までにウィーンにおいても,ベルリンにおいても君主政治が復活し、民衆的な革命運動はいずれも軍隊の力によって抑えつけられることとなった。

資料 ヴィクトル=ユゴーの描く六月蜂起

 19世紀のフランスの文豪ヴィクトル=ユーゴーの代表作『レ・ミゼラブル』には、彼が体験した六月蜂起の現場を次のように伝えている。
(引用)サン・タントアーヌの防寨は雄魁なものだった。高さは人家の三階に及び、長さは七百尺に及んでいた。その郭外の広い入り口すなわち三つの街路を、一方から他方までふさいでいた。凹凸し、錯雑し、鋸形をし、入り組み、広い裂け目を銃眼とし、それぞれ稜角堡をなす多くの築堤でささえられ、……しかも防寨は何でできていたか。ある者の言によれば、七階建ての人家を三つことさらに破壊して作ったものだといい、ある者の言によれば、あらゆる憤怒の念が奇蹟的に作り上げたものだという。……  実にこのサン・タントアーヌの防寨は、すべてのものを武器としていた。内乱が社会の頭に投げつけ得るすべてのものは、そこに姿を現していた。それは一つの戦いではなくて、憤怒の発作だった。その角面堡をまもっているカラビン銃は、中に交じってた数個の散弾銃とともに、瀬戸物の破片や、骨片や、上着のボタンや、また銅がはいっているために有害な弾となる寝室のテーブルの足についている小車輪までも、やたらに発射した。防寨全体がまたく狂乱していた。名状し難い騒擾の声を雲の上まで立ち上らしていた。ある瞬間には、軍隊に戦いをいどみながら、群集と騒乱とでおおわれえしまった。燃ゆるがような無数の頭が、その頂をおおい隠した。蟻のような群集がいっぱいになった。その頂上には、銃やサーベルや棍棒や斧や槍や銃剣などがつき立っていた。広い赤旗が風にはためいていた。号令の叫び、進撃の歌、太鼓の響き、婦人の泣き声、餓死の暗黒な哄笑、などがそこに聞かれた。……<ヴィクトル・ユゴー/豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』4 岩波文庫 p.157-158>
 なお、ユゴーが1862年に発表した『レ・ミゼラブル』でジャン・バルジャンを主人公として描いたのは、1814年のワーテルローの戦いから、七月革命後の1833年までのフランスである。物語の最後のクライマックスにも六月蜂起と同じようなパリの騒乱が描かれているが、そちらは1832年の6月に起こった六月暴動である。七月王政を倒そうとした共和派が起こした騒乱であったがまもなく鎮圧された。こちらは1848年の六月蜂起に対して、六月暴動と言っているので、蜂起と暴動を使い分けていることになる。
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谷川稔他
『世界の歴史』22
1999 中央公論新社