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パラツキー

ベーメン(チェコ)の歴史家で民族運動指導者。スラヴ民族会議の議長となる。

 フランチェシェク=パラツキー(1798~1876)は、まず歴史家として『1526年にいたるチェコ人の歴史』を書いてチェコ人(チェック人)の体系的な歴史を明らかにし、民族的アイデンティティの確立に大きな影響を与えていた。またチェコ語の体系化を進めていたユングマンらとともに、1831年にチェコ文芸協会を設立し、歴史学や文学の面でのオーストリア帝国支配下のチェコ人の民族的自覚を促した。
 1848年のフランス二月革命はオーストリアに波及しウィーン三月革命が始まった。それを機にオーストリア支配下のハンガリー人、チェコ人(チェック人)、ポーランド人、クロアチア人などにそれぞれの独立と民族国家の建設の要求が吹き出した。この1848年の春に盛り上がったオーストリア支配下の諸民族の独立運動を諸国民の春といっている。
 ベーメン王国(チェコ)でも3月、プラハの市民が集会し、自治とドイツ語とチェコ語の平等などを訴え、ベーメンの民族運動が表面化した。三月革命で窮地に陥っていたオーストリア政府はそれらの要求をほぼ認めた。オーストリア帝国内部での自治獲得という要求を掲げていたパラツキーは「スラヴ人」の連帯を求めるグループとともに6月にプラハで帝国内外のスラヴ人を集めた「スラヴ民族会議」を開催し、パラツキーはその議長となった。これは同時に開催されていたフランクフルト国民議会に参加してドイツ国家の加わろうとしていたベーメン内のドイツ人を刺激し、対立が強まった。その同じ時期に急進派の労働者や学生の暴動が発生したため、オーストリアは軍隊による鎮圧に踏み切り、スラヴ民族会議も解散させられた。

その後のパラツキー

 その後、帝国議会議員に選ばれて、オーストリア帝国を連邦化するための憲法作成を進める中心メンバーの一人となるが、翌49年3月、この議会は、革命勢力を抑えて再び事態を掌握した皇帝政府によって解散させられた。ハンガリー革命も鎮圧され、オーストリアは皇帝フランツ=ヨーゼフのもとで立憲制や議会制は棚上げとなり「新絶対主義」と呼ばれる抑圧体制がとられるようになった。一方では自由な経済活動は認められるようになり、チェコでも繊維工業や鉄工業、機械工業が盛んになってきた。オーストリアは60年代にはフランスに敗れてイタリアを失い、国内の各勢力と妥協を迫られ、帝国議会を復活させた。そのころパラツキーは、「チェコ王冠諸邦」に政治的主体を与え帝国内の一連邦とする構想を掲げて「国家権にもとずく権利要求」を行い、貴族層を中心に支持を集めた。オーストリアはそれを認めなかったが、1866年の普墺戦争に敗れ、ハンガリーに対しては独立国に近い権利を与えて二重帝国を発足させた。その措置はチェコ人の不満を強めることとなり、パラツキーらは国民党を結成し抵抗を続けた。しかしその抵抗はあくまで「受動的抵抗」にとどまっていたため、次第に国民党内部でも直接的な民族独立を求める声が強まり、彼らは「青年チェコ党」を結成した。彼らは上層市民や貴族層を支持基盤としたパラツキーを「老チェコ党」と呼んで批判した。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』中公新書 2006 p.205-208>
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