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諸国民の春

1848年、二月革命・三月革命でウィーン体制が倒されたことでヨーロッパの被抑圧民族のナショナリズムが高揚したことをいう。その動きは文字どおり「春」でおわり、「秋」には弾圧されててしまった。

 1848年に、ウィーン体制のもとで抑圧されていた自由主義や民族主義の運動が一斉に活発になり、各地で革命が相次ぎ、共和政府の樹立、民族の独立が実現し、ウィーン体制が崩壊した。それらの革命権力の多くは国内の反動勢力やオートリアやロシアの軍事力によって倒されたり、弾圧されてしまったりしたが、近代ヨーロッパの歴史的な大きな転換点となった。

オーストリア帝国の動揺

 多民族国家であったオーストリア帝国では、3月13日、首都ウィーンで民衆が蜂起し、三月革命が起こった。このためオーストリアでは、それまで抑圧されてきた民族のナショナリズムが一気に高揚して、ベーメン民族運動(チェコ)、ハンガリー民族運動ポーランド、北イタリアのヴェネツィアロンバルディアミラノ蜂起)などで相次いで独立運動が起きた。これを総称して諸国民の春と言っている。

春から秋へ

 オーストリア政府はメッテルニヒがウィーンから脱出して亡命し、皇帝フェルディナント1世もインスブルックに難を避けるなど追いこまれ、一時は議会の設置や民族の自治を認めざるを得ない情勢となった。しかし、パリで労働者の六月蜂起が失敗し、共和政府は反動化したことから情勢が変化し、オーストリアの皇帝政府の反撃が始まった。北イタリアではラデツキー将軍の指揮するオーストリア軍がサルデーニャ王国軍を破り、プラハのチェコ人の運動も弾圧された。ハンガリーではコシュートらの新政府に対して、ハンガリー人から抑圧を受けていたクロアティア人が反旗を翻し、イエラチッチに率いられてオーストリア軍と共にブダペストを占領、ハンガリーの独立運動は押さえ込まれた。またポーランドの運動は「ヨーロッパの憲兵」ロシア軍によって抑えつけられてしまった。こうして一年のうちに情勢は激しく変化し、「諸国民の春」は文字どおり「春」でおわり、6月以降は一斉に反動化して「秋」を迎えることとなった。
 1848年のこれらの運動はオーストリアやロシアの軍隊の力で抑えつけられたが、しかし、19世紀後半から20世紀初めに実現する自由、民主政の実現、民族の独立などの大きな動きの出発点となった。 → 1848年革命
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