スラヴ民族会議(スラヴ会議)
1848年6月、ベーメン(チェコ)のパラツキーがオーストリア領内のスラヴ系民族の糾合をめざして召集し、プラハで開催した。
チェック人などのスラヴ系民族の多くはオーストリア帝国の支配を受けていた。1848年、ウィーン三月革命が起きて、被支配民族の諸国民の春といわれる独立運動が起きると、チェック人の居住するベーメンでもベーメン民族運動が呼応し、プラハでは歴史家のパラツキーは、スラヴ系民族の連携を図るため、スラヴ民族会議(スラヴ会議とも言う)を組織した。パラツキーはパン=スラヴ主義をかかげ、ゲルマン人・ラテン人に対抗してスラヴ人の結束を目指したが、実際に会議に参加したのはオーストリア統治下のチェック人が大部分でロシア人(2人の代表のうちの一人がバクーニン)やプロイセン支配下のポーランド人は少数にとどまった。
フランクフルト国民議会に対抗
会議は1848年6月2日からプラハのボヘミア博物館を会場に、パラツキーが議長となって開催された。この会議はスラヴ民族の連帯を強める目的と同時に、ドイツ人がドイツ国家の建設をめざして開催したフランクフルト国民議会に対抗する意味があった。ベーメン(これはチェコに対するドイツ語の表記)にはドイツ系住民も多く、ベーメン王国は神聖ローマ帝国の選帝侯の一つで、ドイツ連邦にも加わっていたからである。パラツキーもフランクフルト国民議会への参加を要請されていたが、それを拒否してスラヴ民族会議を開催したのだった。また、同じくオーストリア帝国の支配を受けていたハンガリーではコシュートらを中心したマジャール人の民族運動が高揚しており、それに対抗する意図もあった。弾圧による解散
しかし会議はスラヴ系民族間の利害が対立し、オーストリア帝国の解体には踏み込むことが出来ず、民族の自治権を強めることを要求する決議にとどまった。反撃に移ったオーストリア政府は独立運動の武力弾圧を強行して、プラハを砲撃し、スラヴ民族会議に対しても解散を命じた。こうしてベーメンのチェコ人独立運動は抑えつけられ、それ以後はパラツキーらはオーストリアと妥協しながら、実質的な自治を獲得するという現実路線に転じた。その後のスラヴ民族会議
スラヴ民族会議はその後も開催されている。1867年の第2回はモスクワで開催され、ロシア人を中心としたパン=スラヴ主義の運動という性格を強めた。その後も、1908年にプラハ、09年にペテルブルク、10年にソフィア(ブルガリア)、12年にプラハで開催されたが、第一次世界大戦の勃発で開催されなくなった。