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コシュート

ハンガリーの国民的英雄となっている独立運動の指導者。1848年の蜂起をロシア軍に鎮圧され、イタリアに亡命。

 コシュート Kossuth はコッシュートとも表記。1802-1894 オーストリア帝国に支配されていたハンガリーで、弁護士を開業。1832年に国会議員となり、ハンガリーの分離独立を主張し、1837~41年は獄中生活を送った。1847年に下院議員に選出され、ハンガリーの自治にとどまらない政治的独立を主張し、運動の指導者となった。翌年、ヨーロッパで1848年革命が起こり、オーストリアに支配されていた諸民族の独立運動諸国民の春が始まると、ハンガリーにおける独立指導者としてその先頭に立ち、一時は実質的独立を勝ち取り、その後は反動に転じたオーストリア軍と戦って敗れ、亡命した。

ハンガリー独立運動

 1848年、パリの二月革命の知らせを受けるとコシュートは3月3日、議会で演説し、メッテルニヒ体制を厳しき非難しハンガリーの独立を要求した。ついで3月13日にウィーンに三月革命が起こり、メッテルニヒが失脚すると、1848年3月15日にコシュートは、ハンガリー議会で責任内閣、言論・出版の自由などの要求をオーストリア皇帝に提出することを決議、皇帝はそれを承認した。4月に新憲法が制定されてハンガリーはオーストリア皇帝を戴くオーストリアと対等の立憲君主国となった。コシュートは新内閣の蔵相に就任し、実権を握った。

革命戦争の展開

 しかし6月以降、反動に転じたオーストリア政府は間もなくハンガリーの国家主権を否認し、改革を撤回した。またハンガリーの独立を主導するコシュートらマジャール人に対して、南スラブ系のクロアティア人の反発が強まり、オーストリアはそれを利用して革命弾圧を行った。オーストリア皇帝からハンガリー総督に任じられたクロアティア人のイエラチッチがハンガリーに進軍すると、コシュートは国防委員会を組織してその議長となり、それを撃退した。
 しかし、10月にはウィーンの市民によるハンガリー攻撃反対のデモを鎮圧したオーストリア皇帝は、ハンガリー全面制圧を決意し、1849年1月に攻撃を開始した。ブダペストをオーストリア軍に占領されたために議会と政府を移し、コシュートはハンガリーの完全独立とハプスブルク家の失権を宣言し、自らを首相とする臨時革命政府を組織した。反撃に転じたコシュートはブダペストを奪還したが、オーストリアはロシアに援軍を要請、ロシア軍か介入したことによって革命軍は各地で敗れ、ハンガリー全土は鎮圧された。やむなくコシュートはオスマン帝国に逃れ、その後イタリアのトリノなどに亡命し、生涯ハンガリーの独立を国際世論に訴えながら、ハンガリーの戻ることなく死去した。
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