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ドイツ統一問題

神聖ローマ帝国のもとで実質的に分裂していたドイツ諸邦の統一を目指す動きが、1848年の三月革命で盛り上がり、フランクフルト国民議会が開催されたが、大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立し、実現しなかった。

 神聖ローマ帝国時代のドイツは、領邦の連合体にすぎなかったが、イギリスにおける議会政の発展やフランスにおける市民革命の進展などに刺激され、ドイツ国民国家としての統一と憲法の制定を目ざす動きがウィーン体制のもとで進んでいった。
 最初の統一の動きは、経済的な要請からおこり、ドイツ連邦が互いに設けていた関税がドイツの産業の立ち後れの要因になっているこたことから、その撤廃を目指すドイツ関税同盟1834年に結成された。その中心となって国力をつけ始めたのがプロイセン王国であった。
 政治的な面での統一を求める動きが一気に盛り上がったのが1848年革命が波及し、三月革命が起こった時であった。プロイセンのベルリン、オーストリアのウィーンでともに自由を求める革命が勃発し、それをうけて同年、フランクフルト国民議会が開催され、ドイツ統一と憲法の制定が審議されることとなった。 → ドイツ

大ドイツ主義と小ドイツ主義

 ドイツ統一は、当初はドイツ人の居住地域である旧神聖ローマ帝国のドイツ連邦の全域が含まれるものと考えられたが、この大ドイツ主義をとることになると、オーストリア帝国内のドイツ地域は含まれるが、その支配下にあるハンガリー、チェコ、北イタリア(ヴェネツィアなど)は含まれないことになる。このように多民族国家であるオーストリアの扱いをめぐって生じたのがドイツ統一問題である。当然オーストリア側は大ドイツ主義による統一に難色を示すこととなったので、オーストリアを含まない範囲でドイツ統一を実現しようという小ドイツ主義が台頭した。

オーストリア

 その間、オーストリアは自由主義・ナショナリズムを抑圧する反動に転じ、チェコ人、ハンガリー人、イタリア人の分離独立運動をつぎつぎに弾圧、1849年3月には「オーストリア帝国の不分割・一体性」を盛り込んだ帝国憲法を制定した。

プロイセン

 こうしてオーストリアがドイツ国民国家から離脱したので、フランクフルト国民議会は最終的に小ドイツ主義を結論としドイツ諸国の中で最も有力であったプロイセン王国を中心に統合されるこになった。政体は立憲君主政をとることにしていたが、プロイセン国王フリードリヒ=ウィルヘルム4世が議会からあたえられたドイツ皇帝の地位をきらい、憲法承認を拒否したので、憲法は宙に浮き、ドイツ統一は実現しなかった。
1862年、プロイセン首相となったビスマルクは「鉄血政策」といわれる富国強兵策を進め、デンマーク戦争普墺戦争と次々と戦争での勝利をかさね、あらにナポレオン3世のフランス帝国を普仏戦争で破り、1871年1月8日のドイツ帝国の成立によって実現することとなる。

ヒトラーのオーストリア併合

 後にヒトラーは、第三帝国と称して神聖ローマ帝国領の復活を実現し、オーストリアを併合を実行した。しかし、ヒトラードイツの敗北により、第二次世界大戦後はオーストリア国家条約でドイツと分離され、統合は禁止された。とはいってもオーストリアはドイツ人の国家であり、ドイツ語が使われ、ドイツ文化圏にあるので、現在も「大ドイツ主義」は復活しかねない問題である。 
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