進化論
イギリスのダーウィンが1859年『種の起源』で発表した生物の進化についての学説。それ以降の自然科学、社会思想などに幅広い影響を与えた。
ダーウィンの進化論の戯画
この自然界における進化論の理論(ダーヴィニズム)は、当時、勃興しつつあった資本主義の自由競争(レッセ=フェール)の思想と結びつき、社会進化論(社会ダーヴィニズム)といわれる思想を生み出した。それには事前と歌の原理を人間社会に適用しようとしたハーバート=スペンサーが代表的思想家である。
アメリカでの進化論裁判
1925年、アメリカのテネシー州裁判所は、公立学校で進化論を教えたジョン・T・スコープスを州法に違反したとして有罪する蟠結を下した。この裁判は進化論裁判として、アメリカ全土の注目を集めた。 スコープスはテネシー州の小さな町デイトンの高等学校の生物教師で、授業で進化論を生徒たちに教えたのは、進化論を教えてはならないというテネシー州の州法に違反した、というものだった。ダーウィンの進化論はすでに1859年に発表されていたが、神を万物の創造主とするキリスト教原理主義者にはとうてい受け入れられないものであった。アメリカ南部にはそのような原理主義的信条をかたくなに守る集団が存在していたので、テネシー州を含む幾つかの州で、進化論を教えることを禁止する州法が成立していたのだった。キリスト教原理主義者は旧約聖書の創世記の「神は六日間でこの世を創造なさった」という言葉を一字一句真実であると信じているので、すべての生物がゆっくりと進化した、ましてや人間は猿から進化したとする説は、邪悪な妄説でしかなかった。スコープスを訴えたのは、1908年のアメリカ合衆国大統領選挙に民主党から出て落選したこともあるウィリアム・ジェニングス・ブライアンであり、弁護に当たったのはクラレンス・ダロウだった。小さな町のこの裁判は全米の注目を集め、ジャーナリストが集結し、裁判の詳細が報道された。結局、スコープスは有罪となったが、わずかな罰金で許されることになった。しかしこの裁判(モンキー・トライアルといわれた)の結果、法律と判例はその後数十年にわたって効力を保ったのだった。また、この裁判によって、南部人すべてが原理主義者であったのでは無いにもかかわらず、南部人全体が後進的で、無教育で、不寛容で、人種差別が厳しく、近代的な思考を理解できない人間だ、と思われるようになった。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.143-144> このような1920年代の保守化の傾向は南部での進化論裁判だけでなく、アメリカ全土での移民の急増などを背景としており、日本人移民の禁止などを定めた1924年の移民法の制定などと共通する動きと考えられる。