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移民法/排日移民法

アメリカ合衆国で移民制限を図るためにたびたび制定された法。1882年には中国人移民を禁止し、1924年の移民法では南・東欧系移民の数を制限するとともに、日本人移民は禁止し、排日移民法とも言われた。第二次世界大戦後の1965年に移民制限は廃止されたが、アメリカでの移民問題は現在も政治課題として続いている。

 第一次世界大戦後、アメリカ合衆国の戦間期では国際連盟への不参加に見られるような孤立主義が復活し、外国の影響からアメリカを守るという排外感情が強まった。それは外国からの移民を制限するという政策となって現れた。すでに1882年には最初の移民制限策である中国人労働者移民排斥法が制定され、中国人移民の停止の措置がとられていたが、代わって日本人移民が増加してきた。また、19世紀末から20世紀にかけて、南欧・東欧出身のいわゆる「新移民」の増加が新たな問題となってきた。 → 20世紀のアメリカへの移民

「新移民」に対する反発

 彼ら新移民は非熟練労働者として低賃金で雇用されるので、アングロ・サクソン系移民を主流とするアメリカ人の雇用を脅かすこととなった。アメリカ労働総同盟も熟練労働者の権利確保を主眼としていたので、新移民の労働者は組織されることなく、労働運動でも排除された。また、彼らは宗教的にはカトリック(イタリア系・ポーランド系)やギリシア正教(ギリシア系)・ユダヤ教(ユダヤ系)の信仰を守っていたので、WASP(ワスプ)のプロテスタント社会に融合しようとしなかった。しかもその一方でアメリカはすでに1830年代に普通選挙制が確立していたので、新移民にも選挙権が与えられていたため、旧移民側は新移民の増加にたいして強い危機感を持つようになった。
1921年の割当移民法 まず1921年に出身国別に移民を割り当てる割当移民法を考案した。それは1910年の国勢調査を基準にして外国生まれのアメリカ人を出生国別に分け、その3%を国別の移民受入数として割り当てた。それは移民総数の制限をねらったものだが、すでに1910年には南欧・東欧系の新移民として入国していた人口も相当数に達していたので、その年を基準とするのでは新移民を制限しようという意図とは合致しなかった。

1924年の移民制限法

 そこで、1924年5月26日に新たに成立した移民法( Immigration Laws ジョンソン=リード法ともいう)は、1890年の国勢調査における出身国別人口の2%の移民を許可することとした。すなわち、基準年を1910年から南欧・東欧からの移民が少なかった1890年にさかのぼらせることによって、実質的にそれら「新移民」を制限するのが狙いであり、アングロ・サクソン系ないし西欧北欧出身の旧移民を多数とする人口構成を守ろうとしたものであった。

「排日移民法」でもあった

 1924年のこの法律では、アジア系人種は、「帰化の資格を有しない」人種と規定されたため、移民としての入国は出来なくなった。ここでいうアジア系人種とは中国人と日本人であったが、中国人移民は1882年にすでに中国人労働者移民排斥法で移民が禁止されていたので、具体的には日本人移民が該当するのであり、この規定は日本からの移民は完全に禁止ということを意味していた。背景は、日露戦争後で日本が中国大陸への進出を開始し、アメリカ資本と衝突するようになったことを背景として日本人移民に対する排斥運動が強まっていたためであった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 中公新書などによる>
POINT  アメリカの移民法はたびたび制定されている。その中で重要なものが1882年の中国人移民禁止法、1924年の移民制限法、戦後の1965年の改正移民法である。特に1924年の移民制限法は南欧・東欧系移民の制限と日本人移民禁止を狙ったもので重要。単に移民法と言った場合、この1924年の法を指す。

その後の日本人の海外移民

 この移民法によってアメリカへの外国からの移住者は激減した。アメリカへの移民の門戸を閉ざされた日本人は、1908年から始まっていた、南米ブラジルへの移民が急増することとなる。
日系アメリカ人の苦難 日本人のアメリカへの移民は、1868年4月のハワイ移民に始まり、1880年代に中国人移民が制限されたことによって、それに代わってアメリカ西海岸を中心に急増した。20世紀に入って日本人移民排斥運動が始まり1906年にはサンフランシスコで日本人学童が隔離されるなど、日本人に対する排除の機運が高まった。1924年には移民が事実上、禁止された。その間、日系人はアメリカ社会に同化したものも多かったが、1941年12月の太平洋戦争勃発により、翌年3月~6月に大統領令により約11万人が強制的に立ちのきを命じられ、収容所に収容された。この日系人に対する措置は連邦最高裁で争われたが、戦時の非常事態という理由で合憲とされた。
 戦後の1980年になって議会で委員会が設けられて調査が行われた結果、アメリカ政府の判断に誤りがあったことが判明し、1988年8月、日系アメリカ人補償法が成立して、生存者一人あたり2万ドルの賠償金が支払われた。

1965年 改正移民法

 日本人のアメリカ移民が再開されるのは、1924年移民制限法が廃止された、第二次世界大戦後の1965年からであるが、それによって増加したのはアジア系移民よりも中南米からの移民だった。
 民主党政権のケネディ・ジョンソン両大統領の時期に従来の移民法の見直しが進められ、1965年10月3日に移民割当制を廃止して改正移民法(ハート=セラー法)が制定され、68年に発効した。これは改正移民法ともいわれ、従来の国別割り当てとアジア系移民に対する排他的措置を廃止するものであった。
 ただし、総数規制は行われ、年間移民受け入れ数は29万人、その西半球諸国から12万人、東半球諸国から17万人と定めた。移民受け入れは申請順に許可することを原則とした。この改正によってアメリカへの移民はヨーロッパ系が減少し、アジアと中南米系が増大した。<大下尚一他『アメリカハンディ辞典』p.149>
ヒスパニックの増加 移民割当制が廃止されたことによってアジア・中南米からの移民が増加したが、特に多くなったのは中南米からの移民、いわゆるヒスパニック系(旧スペイン植民地であったためスペイン語が母語となったラテンアメリカ諸国出身の人々。アメリカではラティーノとも言われる)であった。調査によると、ヒスパニック人口は1965年当時は3.5%に過ぎなかったものが、2015年には17.6%となっている。現在(2020年)には黒人の13.4%を抜いて、アメリカで最大のマイノリティ集団になっている。メキシコに近いニューメキシコ州では48%、カリフォルニア州・テキサス州では39%を占めるようになっている。彼らの存在は大統領選挙にも影響を与え、多くは多様性を掲げている民主党を支持している。<久保文明・金成隆一『アメリカ大統領選』2020 岩波新書 p.208>
 ヒスパニック系の移民の中には正当な手続きを取らずに入国するいわゆる不法移民も多い。不法移民取り締まりのために、すでに1986年には不法入国者を雇った雇用主を厳罰にするなど法的措置が取られているが、白人の中にはヒスパニック人口が増大することにアメリカ的価値が脅かされるとして脅威に感じる人々も多く、そのような排外主義的な主張に同調した共和党は、民主首藤の寛容な移民政策を攻撃し、対立点の一つとなっている。そのような中で、2016年大統領選挙で共和党トランプは不法移民排除のためにメキシコとの国境に壁を築くことを公約に掲げ、当選した。
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貴堂嘉之
『移民国家アメリカの歴史』
2018 岩波新書