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自由放任/レッセ=フェール

18世紀後半、アダム=スミスらが説いた、国家の統制を否定し自由な経済活動を重視する古典派経済学の主要な理念。19世紀の資本主義経済の発展をもたらしたとされる。

 16~18世紀前半までの西ヨーロッパの絶対王政国家では、国家が国内生産や貿易を管理することによって国の富を増やすという重商主義を採用していた。それは国内産業を保護するため輸入に関税をかける保護貿易主義を取ることが多かった。そのもとでは、国民は自由に生産や商業活動を行うことはできず、重税とギルドによって縛られていた。

重農主義

 しかし、17世紀に絶対王政の支配が動揺する中で、イギリスではホッブズやロックが社会契約説を説き、18世紀に入るとフランスを中心にモンテスキューやヴォルテールなどの啓蒙思想が広がり、政治的な自由とともに経済活動の自由にも目が向けられるようになった。そのような中、フランスのケネーは1758年に『経済表』を著し、国家の富の本になるのは貿易の利益ではなく、農民の生み出す富であり、農業を唯一の国家の富の源泉であると主張する重農主義を提唱した。ケネーはさらに農民の生産物を商人が自由に流通させることで経済は成長、発展すると考えた。ケネーの経済思想はフランスのルイ16世の宮廷でテュルゴーによって実行されようとしたが、貴族や地主の反対により1776年に罷免され、実現しなかった。

アダム=スミス『諸国民の富』

 その同じ1776年3月に、イギリスの経済学者アダム=スミスが『諸国民の富』(国富論)を発表した。アダム=スミスはケネーの思想を一歩進めて、富の源泉は農業や商工業における労働にあるとして、農民や商工業者の自由な生産活動は国家が統制したり管理すべきではなく、自由に放任すべきであると説いた。この「なすに任せよ」(フランス語で laissez faire レッセフェール)という言葉がその核心であったことから自由放任主義とも言われるようになった。
 アダム=スミスの説く自由放任主義では、人々の経済活動は、国家の統制や管理が無くとも、自ずから調整され、混乱と無秩序な状態に陥ることはないと考えており、それを「見えざる手」によって「予定調和」的に推移するとした。
 この「自由放任」の理念は、西ヨーロッパでは、市民革命によって生まれた市民社会に適合した思想として受け入れられ、また、同時期に展開された産業革命によって生み出された資本主義経済の自由競争社会に適合し、19世紀にひろく一般化した。特にイギリスでは19世紀前半に次々と自由主義経済政策への転換が図られ、それとともに資本主義経済の急速な工業化とその市場と原料供給地の確保のための植民地の広がりは、大英帝国(第二帝国)の繁栄をもたらしたが、それはこの自由放任の思想、自由主義経済思想によって支えられていた。

資本主義の矛盾の表面化

 しかし、自由競争は「見えざる手」による調和をもたらすことはなく、資本の集中による弊害、資本と労働の対立、貧富の差の拡大、都市への人口集中などの社会問題の発生をもたらした。イギリスのオーウェンやフランスのサン=シモンらは資本主義の行き過ぎを修正して労働者を保護する必要を説き始め、そこから生まれた社会主義は、19世紀中頃には資本主義社会を否定して労働者の解放をめざすマルクスエンゲルスの革命思想を生み出した。
 またヨーロッパにおける後発国であったドイツでは、イギリスと対抗しながら工業化を図るには、自由貿易ではなく保護貿易主義が有効であるとするリストの経済思想が生まれた。
 第2次産業革命の重化学工業化は巨大な独占資本によって進められ、それはアダム=スミスらが否定した国家の統制を復活させ、国家権力と結びつくことによって可能となり、この帝国主義段階とも言われる国家資本主義はもはや本来の自由放任は全く姿を消し、自由な経済財活動や自由競争は不可能な時代となった。そのような帝国主義は必然的に国家利益をめぐって対立することとなり、20世紀に入り第一次世界大戦へと走って行った。同時にロシア革命によって社会主義国家が誕生したが、それは、自由放任の理念を根底から否定して国家(党)による計画経済を具体化していった。

世界恐慌

 第一次世界大戦の大きな犠牲にもかかわらず、 社会主義国家以外の「持てる国」ではそれまでの自由競争理念で進められた資本主義諸国の経済政策を大きく転換させることは無かった。イギリスに代わって世界経済の中心となったアメリカは厖大な資源を背景に自由主義経済を発展させた。1920年代のアメリカを主導した共和党政権は、経済は市場に委せるという放任主義を採った。しかし、資本主義の矛盾が1929年、世界恐慌によって「もてる国」の内部で倒産、失業が増大し、一方のいわば世界分割競争において「持たざる国」となったドイツ、イタリア、日本などファシズム国家は膨張主義をあからさまにていった。各国は自国経済の保護のため、ブロック経済をつくり、自由貿易から保護貿易に転換した。この世界経済の崩壊は国際連盟による国際協調主義を破綻させ、世界は第二次世界大戦へと突入した。

ケインズの修正資本主義

 このような危機にあって、アダム=スミス以来の自由放任による資本主義経済の修正をはかる学説として、イギリスのケインズによって提唱されたのが、修正資本主義とも言われる考え方で、それは資本主義の枠内で国家が金融政策、財政政策などによって経済に介入しようという、一面、資本主義経済に計画経済的要素を加えようとする経済学説であった。それは大戦中のアメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領のニューディール政策に取り入れられた理念であった。また、大戦後のイギリスの労働党政権はケインズ学説による経済政策を導入、重要産業国有化や社会保障制度の充実に努め、「ゆりかごから墓場まで」といわれた新しい時代に対応しようとした。また国際的には、世界恐慌の再発を防止する機関として国際通貨基金が作られ、また自由貿易の原則を維持するためのGATT(後の世界貿易機関WTO)も生まれ、世界経済の国際協力の枠組みとされた。

戦後世界の転換

 戦後の資本主義国は、標榜するしないは別として、いずれもケインズ的な修正資本主義経済政策に基づき、一定の国家による経済管理、雇用政策、社会保障の充実をはかっていった。これらの場合、国家機構が膨張し、いわゆる「大きな政府」をとるようになったことによって、次第に財政負担が重くなり、国際競争力が失われていく、と現実にぶつかるようになった。特に1960年代以降のイギリスでは、産業革命時代の繁栄は失われ、老朽化した施設と、厖大な官僚機構、社会保障の出費だけが残り、「イギリス病」といわれるようになった。アメリカも戦後の繁栄は、ベトナム戦争による莫大な軍事費と、社会保障の財政負担が国家財政の赤字となって経済に陰りが現れ、ドイツや日本に追い抜かれるという状況が出てきた。

新自由主義

 そのような中で、新たな経済学説として、ケインズ的な「大きな政府」による完全雇用をめざすのではなく、「小さな政府」による効率的な国家運営にとどめ、国家の経済介入を最小限に留め、経済活動を全面的に市場に委せるべきであるという、アメリカのシカゴ大学を中心とした、フリードマンらのシカゴ学派が登場した。このいわば新たな自由放任思想は、新自由主義と言われ、20世紀末に強い影響力をもたらした。イギリスにおける1980年代のサッチャー政権、アメリカにおけるレーガンの経済政策がその典型であり、日本でも中曽根康弘内閣などがそれに倣った。具体的には、規制緩和、民営化などに見られ、例えば日本でも中曽根内閣による国鉄の民営化、小泉内閣による郵政民営化などの流れがそれである。
 新自由主義の経済政策は、社会主義的な改革路線を採っていた政府を覆して、資本主義の利権を守ろうとする際にも取り上げられた。チリのアジェンデ政権を倒したピノチェト軍事政権は直接的にシカゴ学派の経済学者による新自由主義経済への転換を強行した。

資本主義の動揺と社会主義国家の転換

 しかし20世紀末にまると、新自由主義政策を導入した諸国では、自由競争が前提とされたことによって競争に敗れた人々の貧困、生活難が表面化し、健康や家計での国のセイフティネットが機能しなくなり、社会不安が進行すると言った事態が現れてきた。イギリスではサッチャー政権を継承した保守党内閣でその状況が強まったため、有権者が保守党から労働党にぶれて、ブレア政権が誕生、ブレア政権はサッチャー路線の継承と共に修復を図ることを表明した。
 アメリカではレーガン政権を継承した共和党政権の下で大規模な金融自由化が進められた結果、2007~08年にかけて金融システムのバブルがはじけてリーマン=ショックが起き、アメリカの経済力の衰退が明確になった。
 一方、自由放任主義の対極にあった社会主義経済圏は、1989年の東欧革命、91年のソ連崩壊という激震によって消滅、政治の民主化と共に経済自由化が進んだ。同じ社会主義国である中華人民共和国は文化大革命の反動とも言える鄧小平主導による改革開放政策に大胆に転じたが、それは政治的自由化(民主化)を伴わない、いびつなもので、その経済理念とされたのは、独裁政権の下での開発独裁に近い社会主義市場経済といわれるものである。
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