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移民(アメリカ)

アメリカ大陸への移民は、17世紀のイギリスなど西ヨーロッパから始まり、合衆国建国後も続いた。黒人奴隷制度が廃止になってからは中国からの移民が増加し、19世紀末からは新移民と言われる東欧・南欧からの移民が増加するなど、時期的な変化が見られる。また旧移民の側から、新しい移民の流入を制限する要求も強く、たびたび移民制限政策が採られるようになった。

 世界史上の民族移動の一つの形態である移民(移民として外国に出て行くのが emigration 、外国から入ってくるのが immigration )は、さまざまな事例を見ることができるが、特に大規模な移民の受け入れが行われたのがアメリカ合衆国であった。17世紀以降のイギリスからのアメリカ新大陸への人びとの移住による13植民地の成立に始まり、移民はアメリカ合衆国独立、南北戦争、二度の世界大戦という激動の中でアメリカという国家をつくりあげる人的な基盤となった。アメリカという国家の歴史は移民を抜きにしては考えることができない。 → エミグラントとイミグラントの違いについてはWASPの項を参照。
 アメリカへ植民地への移住者の中核となったのは、イギリスからの新教徒で、彼らは後にWASP、つまり「白人・アングロ=サクソン・プロテスタント」と言われ、アメリカ社会の中核となっていった。しかし、イギリス植民地時代以来、それ以外の多くの民族が新天地での生活を求めて移住してきた。彼らはイギリス人以外にも、フランス人、オランダ人、ドイツ人、それに北欧人など西ヨーロッパ諸地域からの移民であった。また、18世紀後半のアメリカ独立革命によるアメリカ合衆国の独立・建国後も積極的に移民を受け入れ、多人種国家として国作りを進めてきた。
注意 厳密には「移民」(イミグラント)はアメリカ合衆国独立(1789年)以降に移住したものを指し、それ以前の植民地時代の移住者(植民者、定住者ともいう)と区別する説明もある。その方がわかりやすい点があり、独立以前の移住者であるイングランドの白人でプロテスタントの子孫が独立後も社会的に優位であったことから、彼らをWASPと呼ぶようになった。

人種のるつぼからサラダボールへ

 ヨーロッパ大陸からの移民船が入港するニューヨーク港の入り口に立つ自由の女神は、自由の国アメリカへの移民を歓迎するポーズをとっている。このように「移民の国」として始まったアメリカ合衆国であるが、黒人奴隷として強制的にアフリカ大陸から連行されたアフリカ人は移民とはされない。また、大陸本来の住民であったインディアンも居住しており、それらに加えてさまざまな移民が混在する「人種のるつぼ(melting pot)」が形成された。アメリカにはその後、さまざまな問題を抱えることとなると、最近ではこれら異なった人種は混在するのではなく、都市の中で住み分ける傾向が強く、「人種のサラダボール」などとも言われている。

アメリカへの移民の波

 アメリカへの移民の動きには、時期的に人種的な違いがある。どのような時期に、どのような民族が移民としてやってきたか、またそれぞれの移民間の関係はどうだったか、などがアメリカの歴史にとって重要な意味をもつ。
西欧・北欧系移民 北米大陸への移民は、1607年のイギリス人のヴァージニア入植、続いて1620年のピューリタンのピルグリム・ファーザーズの渡来に始まり、次いでオランダ人、スウェーデン人、ドイツ人、フランス人など西欧・北欧からの移民であった。彼らの多くは、プロテスタント系の信仰の自由を求めて新天地にやって来た人びとで、その子孫はWASPと言われてその後のアメリカ国家の中核となっていく。独立からナポレオン戦争の時期は一時的に減少したが、1810年代以降に再び増えだした。彼等は東部の都市住民として定住しただけでなく、西部開拓時代に西漸運動を展開し、西海岸にも進出する。19世紀後半にはビスマルク時代のドイツからの移民も多かった。
アイルランドからの移民 1840年代からは主にアイルランドから年間100万単位での移民が行われる。その契機となったのは1845年からアイルランドで起こったジャガイモ飢饉であった)。彼等アイルランド系(Irish)は祖国での貧困から逃れるために移住したので、低賃金労働に従事し、一部の成功者を除いて都市の下層社会を構成した。またその多くはカトリックであったので、プロテスタント社会とは別個の社会を作っていった。大統領となったケネディはアイルランド系カトリックの成功者であった。
中国人移民(華僑) 1833年にイギリスが奴隷貿易を禁止しために、19世紀後半には黒人奴隷労働に依存できなくなった。それに代わって急増したのがアヘン戦争に敗れた中国からの移民であった。中国(清朝)は1842年の南京条約で開国させられ、さらにアロー戦争後の北京条約で中国人の海外渡航が認められて以来、中国人労働者が安価な契約労働者としてアメリカに連れていかれるようになったのだった。彼らは苦力(クーリー)ともいわれ、実質的には奴隷と同様の扱いを受けた。中国人以外のインド人も苦力と言われて、アメリカに移住した。
 1860年代の南北戦争後のアメリカ合衆国では非白人の移民が急増した。特に中国系の移民(苦力)は、黒人奴隷制が廃止されたために代替の労働力として急増し、カリフォルニアの金鉱開発や大陸横断鉄道建設の労働力として使役され、アメリカの産業革命を支えていく、と言うことが出来る。彼らの中には南洋華僑としてアメリカに定住するものも増えていった。
中国人移民の排斥 中国人移民の多くは未熟練労働者として低賃金での「契約」に縛られ、熟練労働者として「自由」なアイルランド系などの白人労働者と利害が対立するようになった。カリフォルニアなど西海岸で激しい中国人排斥運動が起き、早くも1882年には中国人労働者移民排斥法(排華移民法)が成立して、その移民は禁止された。
(引用)自由移民の原則を堅持してきたアメリカ政府にとって、1882年に制定された排華移民法は、特定国籍を対象とした最初の移民制限措置であり、移民政策史上、大きな転機をなすものとなった。この米国による排華の法的「壁」の建設は、たちまち同時代のオーストラリアニュージーランドカナダへと連鎖的な反応を引き起こし、世界大の排華防波堤の形成を生み出した。20世紀転換期のイギリス帝国が唱えた「白人の責務」、白人共同体としてのグローバルな人種主義は、アジアからの移民・苦力(クーリー)の流入が契機になっている点にも注意を喚起しておきたい。<貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』2018 岩波新書 p.21>
 → 白豪主義

帝国主義段階の移民の急増

 19世紀から20世紀前半にかけて、ヨーロッパからアメリカ大陸などの新世界への移住者数は、帝国主義時代に世界が一体化したことから急速に進み、1870年代から第一次世界大戦までの約40年間で、約3000万人(うち2000万人がアメリカ合衆国に、残りはカナダ、アルゼンチン、ブラジル、オセアニアへ)に達し、ピークを迎えた。アメリカ合衆国の帝国主義期を支えたのもこれらの新移民であった。移民の流入が最も盛んになった19世紀の末に、移民の上陸港として栄えたニューヨークの湾頭に立って彼らを迎えた自由の女神は、1886年に完成した。
移民の変化
南欧・東欧系移民 19世紀の移民はアイルランドや北欧が多かったが、20世紀に入ると南欧・東欧からの流れに重心が移った。それ以前の西欧・北欧系の移民を「旧移民」というのに対して、この南欧・東欧系移民は「新移民」といわれた。「新移民」はイタリア人などの南欧系、ポーランド人・ロシア人などの東欧系の人々、それにユダヤ人が多くなった。右のグラフは1871~1920年のアメリカの移民の変化を示すもので、1890年までは圧倒的に旧移民と言われる西欧・北欧からの移民が多かったが、1890年代から新移民と言われる南王・東欧からの移民が急増していることが判る。<紀平英作編『アメリカ史』新編世界各国史24 1999 p.245 のデータより作表>
 1912年4月15日、北大西洋で沈没した客船タイタニック号で犠牲となったのは、ほとんどが低料金の船室に乗船していた多くの「新移民」だった。20世紀の新移民の増加は、旧移民で低賃金労働力としてアイルランド人と競合するようになると、移民制限の動きが強まり、1924年移民法で国別に制限されることとなった。しかし、ユダヤ系や、東欧系には実業界で成功した人も多く、またイタリア系では芸能関係(フランク=シナトラなど)で成功した人物が多い。

日本人移民

 日本人の海外移住、つまり移民は、1868年4月ハワイへの移民(120人。明治元年に当たっていたのでハワイでは元年者といわれた)に始まり、1880年代には中国人移民が制限されたので、それに代わってアメリカ西海岸を中心に急増した。1890年代からは、白人の中に日本人移民に対する反発が強まり、特に1904年、日露戦争で日本が勝利して中国大陸への侵出を強めるとアメリカとの利害の対立が始まって、アメリカ国内での日本人移民排斥運動が起こった。
 1906年には、サンフランシスコ市の学務当局が公立学校への日本人学童の入学を拒否して中国・朝鮮と同じアジア人学校に隔離する措置を取ったため、日本国内でも激しい反米感情が起こった。1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協をはかったが、なおも日系移民に対する反感は残った。

1924年の制限移民法

 第一次世界大戦後のアメリカ経済は世界最大の工業国となったため、移民は労働力としてふたたび増加したが、それが白人労働者の職を奪う事態となると、移民排斥も強まっていった。1924年に成立した移民法は、いわゆる南欧・東欧系の新移民を数で制限するとともに、日本人に対しては移民を禁止することに踏みきり、全体的に移民制限が厳しくなった。

移民の減少と戦後の復活

 1924年に移民法が制定され、厳しい制限が加えられたことは、「自由な移民の国アメリカ」がいったんは終わったことを意味していた。移民法で日本人移民がなくなってからはしばらくはラテンアメリカからの移民が増えていたが、1929年に世界恐慌がはじまり、1930年代に不景気が長期化するとともに、移民数は激減した。
 第二次世界大戦後、アメリカ経済が復興し、世界経済の中で最大の生産力と購買力を持つこととなってから、ようやく移民を再び受け入れる状況となり、1965年改正移民法で国別制限と日本人移民禁止も解除されることとなった。その結果、戦後のアメリカ合衆国への移民は、アジアとラテンアメリカが大半を占めるようになった。1990年代には移民総数は戦前の最盛期1900~1910年を上まわっており、現代のアメリカ経済を支える存在であった。
 日本の世界史教科書では、アメリカの移民については戦前の西欧・北欧系移民から東欧・南欧系移民の移行と、中国人移民・日本人移民の制限や禁止にふれ、世界恐慌期に激減したという説明で終わっているので、移民がそこで終わってしまったような錯覚を与えているが、実は第二次世界大戦後に制限が解除されてから急速に復活し、特にアジア系・ラテンアメリカ系が多数を占める移民は戦前を越えている。この点を見落とさないようにしよう。<貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』2018 岩波新書>

トランプ政権の移民・難民規制

 2017年1月20日に就任したトランプ大統領は、早々に大統領令を連発して、選挙公約に掲げていたメキシコとの国境への壁の設置を開始した。1月25日には手始めに不法入国防止のためとしてメキシコ国境での大規模な「壁」建設と国境警備強化の指示を出し「不法移民」に寛容ないわゆる「聖域都市 Sanctury City ※」への連邦補助金のカットを命じた。さらに一日後には「イスラム過激派」の入国防止を目的に、入国審査の厳格化を命じる大統領令に署名、中東・アフリカの七ヵ国(シリア、イラク、イランなど)出身者の90日間入国ビザの発給停止、その他すべての国からの難民受け入れを制限(10日間停止)を決定した。
※聖域都市とは連邦政府による「不法移民」の強制送還への協力を拒否し、彼らを保護している都市でロスアンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、シアトルなど約320程度におよぶ。これらの都市では非合法であっても入国した移民を労働力としなければ、経済が成り立たないのが現実だった。
 このトランプ政権の移民・難民制限に対してアメリカ各都市で抗議活動「移民のいない日」が展開され、調理師・ウェイター・清掃係・配達員などさまざまな職業に就いている外国出身者が一斉に仕事を休み、アメリカ社会の飲食店や施設が休業に追いこまれ機能不全に陥った。<貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』2018 岩波新書 p.5-6>
 トランプ大統領は北東部の重工業地帯でラストベルトと言われた地域の労働者に対して、不法移民の増加がアメリカ人の仕事を奪っていると訴え、同時に農村の保守層にアメリカ・ファーストと訴えたことが効を奏して2016年大統領選挙で勝ったが、実は大都市でのアメリカ経済はすでにこの「不法」(非合法)移民によって支えられているという現実があったのだった。日本ではメキシコ国境に押しよせるラテンアメリカからの不法移民の波に対してトランプが敢然と壁を築いてそれを阻止しているという映像が流され続けたが、なぜそのような現象が起きているのか、壁の構築が人道に反するだけでなく、現実のアメリカ経済にとってもマイナスになっていたことを考えることが必要であろう。

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