リヴィングストン
イギリスの伝道師。アフリカで医療伝道に従事しながら、1866~73年、ナイル源流を探検した。
David Livingstone (1813-73),the most notable explorer of Central Africa.
伝道と探検
スコットランドのグラスゴウ南西部の紡績工場で働く十歳の少年工だったとき、奴隷貿易を知ってショックを受け、敬虔な長老派信者であった彼は医療伝道師を志し、時間をかけて医学・神学を学んだ。南アメリカ、ベチュアナランドのクルマンで伝道生活を行っているときに、住民の言語・習俗、未知の地域への関心に目覚めたのだった。1849年、カラハリ砂漠を越えて北上し、ヌガミ湖の発見で王立地理学協会との結びつきが生まれ、以来地理的探検にのめり込むことになった。さらに北に向かい、ザンベジ川に達したリヴィングストンは大きな瀑布に遭遇、そこにイギリスの女王の名にちなんでヴィクトリア瀑布と名づけた。1853年には中央アフリカのヨーロッパ人が未踏の地の探検に出発、東海岸からザンベジ川を遡り、現在のザンビアに当たる地域を踏破して幾つかの黒人王国を訪問、さらに西に向かい大西洋岸の現在のアンゴラの港ルアンダに着いた。4ヶ月の休養をとった後、ひとがとめるのも聞かずに今度は東に向かい、ヴィクトリア瀑布を確認してついに1856年、インド洋に面したモザンビークの港ケリマネに達した。6ヶ月後、イギリスに帰国、そのアフリカ大陸横断のニュースは大きく報じられ、彼は大歓迎され、有名になった。各地で講演に招かれたリヴィングストンは、黒人奴隷制反対を訴えたが、人びとの歓心は東アフリカ内陸の開拓、植民地化の可能性だった。彼の探検が刺激となってイギリス王立地理学協会はいくつもの探検隊を派遣、一種の探検ブームが起こり、ナイル川源流の探索競争となった。その結果、ニヤサ湖、タンガニーカ湖、ヴィクトリア湖などの大きな湖が発見され、そのうちのヴィクトリア湖がナイルの源流であることが判った。
スタンリーとの遭遇
1866年にリヴィングストンはナイル水源探検に出発、ニヤサ湖とタンガニーカ湖の間の地帯を歩きまわるうち、同行者に医薬品を持ち逃げされ、単身たどり着いたタンガニーカ湖のほとりのウジジという村で病に倒れてしまった。そのまま数年間、行方不明になったリヴィングストンを探し出すために、発見者には償金が出ることになった。ニューヨーク・ヘラルド紙から派遣されたスタンリーは、リヴィングストンの足どりをたどって探すうちに、1871年11月10日、ウジジで村人と暮らしているところを発見、それは世界的なニュースとなった。その時のスタンリーの第一声「リヴィングストン博士とお見受けしますが?」というもったいぶったセリフは世界中に知れわたった。リヴィングストンはスタンリーの熱心な誘いにも乗らずに帰国することなく、現地に残ってまた果たしていないナイル川源流の探索を続けたが、その努力は報われないまま、1873年5月にバングエル湖近くでその生涯を終えた。
彼のアフリカ探検は、けして領土的野心から行われたことではなかったが、それによって得られた情報は、イギリス帝国主義によるアフリカ分割に利用されることとなってしまった。<以上、山口昌男『黒い大陸の栄光と悲惨』1977 講談社 などにより構成>
黒人奴隷貿易廃絶につくす
(引用)探検の間も、リヴィングストンは奴隷貿易廃絶への初志は忘れなかった。キリスト教と文明、そしてなによりも内陸部への有利な交易ルートの発見こそが奴隷貿易を無くす道であるというのが、彼の信念であったが、時にはヴィクトリア朝人独特の「たくましいキリスト者精神」で、腕ずくで奴隷キャラバンから犠牲者を解放したりもした。ザンジバルでは彼の努力でその没年である1873年に奴隷制は廃止されている。<高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』2004 岩波新書 p.218>