アムンゼン
ノルウェーの探検家。1911年12月に南極点に達した。ほぼ同時に南極点を目指したイギリスのスコット隊より1ヶ月早く、人類最初の南極点到達を達成した。
・ノルウェーの探検家アムンゼンは、1903~06年の北極海の探検で北西航路走破に成功し、続いて北極点到達をめざした。しかし、1909年のアメリカのピアリーに先を越されてしまった。その後、目標をもう一つの極地点、南極点到達におき、1910年8月、南極大陸に向かい、イギリスのスコット隊と競争をくりひろげ、1911年12月14日に最初に南極点に達した。スコット隊の南極点到達はそれより約1ヶ月後であり、しかも帰路に遭難し全員が死亡した。アムンゼンは極地探検の成功者として名声を挙げたが、1928年、北極探検の遭難者の救助に向かい、遭難して行方不明となった。
なぜ、出発の遅かったアムンゼン隊が先着できたか。またスコット隊がなぜ失敗し、しかもなぜ遭難したのか。この興味深い分析は、参考図書としてあげた書籍に詳しいので譲るとして、参考のために本多勝一氏の見解だけを紹介しておこう。本多氏はアムンゼンとスコットの違いについて次のような点をあげている。
極地探検家をめざす
ローアル=アムンゼン(本国のノルウェーではアムンセンと発音する)は、1872年、ノルウェーのオスロ郊外の村に生まれ、15歳の時、イギリスの探検家フランクリンの北極圏探検記を読んで北極探検を志した。14歳の時父を亡くし、母の希望で医者を目指して大学に入ったが、21歳で母を亡くすと探検に生涯をかけるため大学を去って軍隊に入った。Episode 真冬でも寝室の窓を開けて・・・
フランクリンの北極圏探検記を読んで、14歳で極地探検を志したアムンゼンは、どうやって初志を貫いたか。本多勝一の著作から紹介しよう。(引用)アムンセンはそうした困難に耐えしのぶところにとくに感動し、自分もそのような未知の大自然で苦難に挑戦したいという衝動にかられた。以来、アムンセンは極寒の地への旅立ちにそなえて、体力づくりやスキー技術習得にはげんだ。真冬でも寝室の窓をあけっぱなしにして、寒さに耐えるように身体をきたえたので、母親はたいへん心配して注意したが、アムンセンは「新鮮な空気が好きだから」といいわけをした。(中略)
ノルウェーには兵役の義務があり、健康な青年は一定期間入営して軍事訓練を受ける。アムンセンは将来の仕事に役立てるために、すすんで軍事訓練を利用しようと思った。しかし近眼だったので、そのために合格できないおそれがある。アムンセンが身体検査ではだかになったとき、老軍医はその鍛錬された頑健なからだに感心して、「なんて見事な体格だ!」と叫んだ。15歳のときからきたえたおかげである。老軍医は、となりの部屋にいた将校たちを呼んでアムンセンのからだを見せているうちに、眼の検査をすっかり忘れてしまった。<本多勝一『アムンセンとスコット』2021 朝日文庫 p.42-43>
北西航路の初航海
アムンゼンの探検家としての最初の成功は、1903年から06年にかけて、探検船ヨーア号で北極海の北米大陸沿いを通って走破したことであった。このコースは、新世界発見後のヨーロッパ諸国が、アジアへの航海ルートとして長く探検をくりかえしていた北西航路と言われる航路で、それまでも17世紀はじめ、ハドソンなどが試みていたが、いずれも厚い氷に閉ざされて失敗していた。アムンゼンの成功は、グリーンランドで買ったエスキモー犬20匹を使ったことだった。何度か氷に閉ざされ3度の越冬を強いられたが、越冬生活を支えたのが犬ぞりでの猟であり、この経験は後の南極探検に役立った。ようやくアラスカ北岸からベーリング海峡を抜けて太平洋に出て、1906年10月にサンフランシスコ港に入り、北西航路の初航海を成功させた。南極点へ
アムンゼンの目標は、初めから北極点到達であった。ノルウェーの探検家の先輩ナンセンが1893年から96年にかけてノルウェーの北端から北極海に乗り出し、北極点を目指したが失敗していた。しかし、北極点到達の栄誉は、1909年4月6日にアメリカのピアリーに持って行かれてしまった。焦点はもう一つの極地、南極点に向けられた。ノルウェーのアムンゼン隊と並んで意欲を燃やしたたのが、世界の海洋国を持って任じていたイギリスだった。イギリス海軍は国家の栄誉を懸けてスコット大佐に北極点到達を命じた。また日露戦争に勝って世界に一躍知られることとなった日本海軍は白瀬矗を派遣した。アムンゼン隊のフラム号はオスロを1910年8月9日に出発、スコット隊のテラノバ号は2ヶ月早く6月1日にロンドンを出航した。白瀬隊は12月1日に館山から南極に向かった。スコット隊との競争
南極点をめざす競争は、アムンゼン隊とスコット隊によって繰り広げられることになった。結果はアムンゼン隊の勝利だった。幾多の困難を乗り越えてアムンゼンが南極点に到達したのは、1911年12月14日であったが、スコット隊が南極点に達した翌年1月17日であり、そのときすでに南極点にはノルウェー国旗がはためいていた。敗北を悟ったスコットであったが、イギリス隊は帰路にさらなる困難に直面し、全員死亡するという悲劇となった。白瀬隊は南極大陸に上陸したものの、局地に向かうことはあきらめ、いったんオーストラリアに引き揚げ、翌年再挑戦したが、はやり極点到達はできなかった。なぜ、出発の遅かったアムンゼン隊が先着できたか。またスコット隊がなぜ失敗し、しかもなぜ遭難したのか。この興味深い分析は、参考図書としてあげた書籍に詳しいので譲るとして、参考のために本多勝一氏の見解だけを紹介しておこう。本多氏はアムンゼンとスコットの違いについて次のような点をあげている。
- 両者の性格 アムンゼンは探検家としての情熱から隊を編成し、隊員にも自立、自主の精神を求めた。スコットはイギリス海軍士官として命令によって極地を目指した。隊員にも軍隊的な規律と服従を求めた。
- 馬か犬か 荷物を運搬するには両者ともソリを用いたが、その牽引は、アムンゼン隊はエスキモー犬、スコット隊は馬(小型のポニー)を用いた。クレバスに落ちても犬はすぐ助けられるが馬は人間も引きずられて落ちてしまう。犬はアザラシやペンギンを餌として途中で補給でき、死んだ犬の肉もえさになる。馬の食料には大量のマグサを運んでいく必要がある。イギリス隊は本隊の馬のマグサを運ぶために、最新のエンジンで動く動力ソリを使った。しかし動力ソリはすぐ過熱し、1、2キロ行ったら30分ほど冷やさなければならず、結局2台のうち1台は故障して使えなくなった。犬も難点があった。荷物が少なくなるに従い、犬の数は減らさなければならない。余分な犬を連れて行く余裕はないのだ。やむをえずアムンゼンは途中でソリ引きに耐えられなくなった犬は殺し、帰りのデポの食料として埋めていく。アムンゼンは犬に愛情を注いでいたが、南極点到達という課題のためには非情な措置を敢えて避けなかった。スコット隊の馬も同じ運命であった。弱った馬は射殺され、隊員のシチューとされた。非常用食料としては馬の方が犬よりすぐれていたのは言うまでもない。しかし、馬を失ったスコット隊は最後は人間がソリを引いた。
- 実力の差 スコット隊は極地に対する経験や寒地での訓練不足があった。ノルウェー人はスキーを自由に操ったが、イギリス人は初めてスキーをはく者もいた。帰路のための食糧基地(デポ)も、アムンゼン隊は15キロごとに設け、見失わないように周辺にも一定距離を置いて旗をたてた。スコット隊はデポ旗を立てただけだったので見失うことがたびたびあった。また、雪原での行動で気をつけなければならないのが雪盲だった。アムンゼンはよく知っていたので隊員にそれぞれ雪メガネを必ずつけさせたが、スコット隊は不注意でつけ忘れて眼を痛めるものがあった。このような経験の差が、極地では大きな結果を招いた。
飛行船による北極海横断
第一次世界大戦がまだ終わらない1918年7月、アムンゼンは再び北極点を目指す探検に出発した。ノルウェーは中立を守ったのでドイツのUボートの攻撃を受けることなく、北海から北極圏に入ったが、この時は厚い氷に阻まれ、3度の越冬をやむなくされ、ようやくベーリング海峡に達し、北極海の東廻り航行には成功したが、北極点には到達できなかった。そこでアムンゼンは、世界大戦で登場した飛行機を利用するしかない、と考え、アメリカ人エルズワースを協力者とし、その操縦する飛行艇で1925年5月に、北極を目指してスピッツベルゲン諸島から飛び立った。しかしこの飛行は燃料不足で途中の氷原に不時着、飛行機を発進させるだけの氷の滑走路をなんとか作ってようやく帰還した。それでもくじけないアムンゼンは翌年、飛行船による北極海横断を計画した。しかし航空機によって北極点に到達するという競争は、同年5月にアメリカのバードが飛行機(フォッカー機)で往復することに成功したため後れを取ることとなった。アムンゼンは3日後の5月11日、アムンゼンとエルズワースはイタリア製の飛行船ノルゲ号で出発、北極点を通過して横断に成功した。こうしてアムンゼンは南極と北極の二つの極点に到達した最初の人物となった。アムンゼンの遭難死
1928年6月、イタリア人ノビレが再び飛行船で北極点を目指したが、途中で不時着し、隊員が氷原に取り残されるという事故がおこった。アムンゼンはすでに引退を表明していたが、旧知の隊員の遭難に心を痛め、ノルウェー北端のトロムソ港から救援隊を率いて飛行艇に乗り込んだ。しかし、それっきり消息を絶ち、ノルウェー、フランス、ソ連の砕氷船が捜索したが手がかりはなかった。その年の10月、ノルウェー沖でアムンゼンの乗った飛行艇の破片が発見され、遭難が確定した。<以上、本多勝一『アムンセンとスコット』2021 朝日文庫などによって構成>