アフリカ探検
19世紀のアフリカ分割の前提として行われた、西欧人によるアフリカ大陸探検。
サハラ以南のアフリカには、いくつもの文明が成立していたが、15世紀にポルトガルによってはじめられ、イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ商人による黒人奴隷貿易へと広がっていった。とくに、17~18世紀のイギリスによる三角貿易が展開される中、沿岸の現地首長が内陸部の黒人集落を襲撃して多数の黒人を拉致したため、アフリカ内陸の人口は減少し、土地は荒廃した。それがアフリカ大陸が「暗黒大陸」化した理由である。
「アフリカ探検」は当初はキリスト教の布教や知的関心からの動機が主であったが、次第にヨーロッパ列強の資本主義経済にとっての価値を探る、経済的動機が主になるようになり、その利害が衝突すると、国家の威信をかけての軍事的探検へと変質していった。こうしてアフリカはヨーロッパ列強による植民地化の脅威にさらされ、列強の利害調整であるベルリン会議(1884-85)を経て、1900年頃までに「アフリカ分割」が完了する。
しかし、実際のアフリカ内陸の開発、つまり入植は、ツェツェ蠅によって家畜に伝染する眠り病などの風土病が最も大きな要因となって、順調には進まなかった。「アフリカ探検」に乗り出した人は無数にあり、その成功者は英雄として祖国に迎えられたが、失敗して行方不明になったり、現地の黒人とのトラブルを引き起こすことも多々あった。
アフリカ「探検」の背景
ヨーロッパ列強のアフリカとの関係が黒人奴隷貿易にあった18世紀までは、取り引きは海岸の交易拠点でヨーロッパ人商人と現地首長との間でおこなわれていたので、アフリカの内陸への関心は低かった。しかし、産業革命が進行した19世紀前半にイギリス、オランダ、フランスが相次いで奴隷貿易の禁止に踏みきり、アフリカを奴隷供給地ではなく、地下資源などの工業原料供給地と、自国の工業製品の市場として見るようになった。そのアフリカ観の変化が、19世紀前半からのヨーロッパ人によるアフリカ内陸の「探検」が盛んに行われるようになった背景であった。「アフリカ探検」は当初はキリスト教の布教や知的関心からの動機が主であったが、次第にヨーロッパ列強の資本主義経済にとっての価値を探る、経済的動機が主になるようになり、その利害が衝突すると、国家の威信をかけての軍事的探検へと変質していった。こうしてアフリカはヨーロッパ列強による植民地化の脅威にさらされ、列強の利害調整であるベルリン会議(1884-85)を経て、1900年頃までに「アフリカ分割」が完了する。
しかし、実際のアフリカ内陸の開発、つまり入植は、ツェツェ蠅によって家畜に伝染する眠り病などの風土病が最も大きな要因となって、順調には進まなかった。「アフリカ探検」に乗り出した人は無数にあり、その成功者は英雄として祖国に迎えられたが、失敗して行方不明になったり、現地の黒人とのトラブルを引き起こすことも多々あった。
主なアフリカ探検
- マンゴー=パーク:イギリス人。1805年、ニジェール川の奥地を探検し、トンブクトゥに到達。帰路行方不明となった。
- ルネ=カイエ:フランス人。1827~28年、ムスリムに扮し、単独でサハラ砂漠を横断。
- ハインリッヒ=バルト:ドイツ人。イギリス政府の委嘱により、1850~55年、トリポリからサハラを縦断、トンブクトゥまでの詳細な記録を残す。
- リチャード=バートン:イギリス人。1858年、タンガニーカ湖を発見。バートンはアラビア学者でもあり、アラビアン・ナイトの翻訳で有名。
- サミュエル=ベーカー:イギリス人。夫人とともにナイル川源流の探索に当たった。1865年にアルベルト湖を発見した。
- リヴィングストン:イギリス人宣教師。現在のボツワナで布教活動をした後、アフリカ大陸東西横断、ザンベジ川流域探検、1855年にはヴィクトリア瀑布を発見。ナイル川の源流探検などをおこなう。一時行方不明となったとされたが、1871年、スタンリーと邂逅した。
- スタンリー:アメリカのジャーナリスト。新聞社から派遣され、1871年にリヴィングストンと邂逅。探検家に転じ、ナイル川源流探検、大陸横断などに成功。ベルギー王の支援によりコンゴ自由国を建設。80年代にイギリス領アフリカの拡大に努める。