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アフリカ分割/アフリカ植民地化

19~20世紀前半に欧州列強によってるアフリカの植民地化が展開され、ほぼ全土を分割された。第二次世界大戦後の1960年代から独立が急増する。

 19世紀前半までのポルトガル・イギリス・フランスなどのヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、海岸部に交易拠点を設け、内陸の現地首長らと黒人奴隷貿易を行うという形態をとっていたが、19世紀中頃からアフリカ探検が進められ、内陸部の豊富な資源の存在が注目されるとともに、勃興したヨーロッパ資本主義諸国にとっての資源の供給地、同時に市場として、さらに資本を投下する先としての植民地として脚光を浴びるようになり、列強は競ってアフリカの領土化に乗り出した。

帝国主義諸国によるアフリカ植民地化

 1870年代のイギリスによるエジプトの支配に始まり、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリアによって帝国主義的分割が進められ、ベルギー国王のレオポルド2世によるコンゴ領有を機に、1884~85年にドイツのビスマルクが提唱したアフリカ分割に関するベルリン会議が開催され、列強の利害が調整された。
 19世紀末にはアフリカ縦断政策をとるイギリスと、アフリカ横断政策をとるフランスが遭遇してファショダ事件となった。このときは全面対決は回避されたが、アフリカにおける主導権はイギリスが握り、イギリスは南アフリカ戦争でアフリカ南端のケープ植民地を拡張し、南アフリカ連邦を成立させた。 → 植民地(帝国主義時代)/植民地主義
 このようにして、1900年頃までにはアフリカ全土は、エチオピアリベリアを除いて列強により分割されてしまった。以下は列強がそれぞれ領土としたアフリカの地域である。

イギリスのアフリカ進出

 1875年のディズレーリ内閣によるスエズ運河会社買収以来、イギリスはアフリカ分割にもっとも積極的に関わった。19世紀末にはエジプトのウラービーの反乱、スーダンのマフディー教徒の反乱の鎮圧し、さらに南アフリカではケープ植民地政府(首相セシル=ローズ)がオランダ系白人入植者のブール人の国への侵略を進め、カイロとケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を掲げた。本国の植民相ジョセフ=チェンバレンも植民地拡大による国内矛盾の解決を掲げて帝国主義政策を展開し、1898年のフランスとのファショダ事件、99年から1902年の南アフリカ戦争を起こすこととなる。

フランスのアフリカ進出

 フランスは1830年のアルジェリア出兵でアルジェリアを植民地化して以来、地中海の対岸の北アフリカへの進出を開始していたが、1880年代から帝国主義段階に入り、1881年のチュニジア占領、および保護国化、さらにサハラジブチマダガスカルの獲得と進み、サハラとジブチを結ぶアフリカ横断政策をとるようになった。これらはイタリアとの対立、アフリカ縦断策を採るイギリスとの対立をもたらした。イギリスとはファショダ事件が起こったが、衝突を回避した後、モロッコへの侵出を策すようになり、1904年には英仏協商を締結して、イギリスのエジプトでの権益とフランスのモロッコ権益を相互に認める植民地分割協定を行った。
 フランスはアフリカ内陸の広大な植民地を、フランス領赤道アフリカ(AEF)とフランス領西アフリカ(AOF)の二つの統治機構に分けて支配した。それぞれから独立した現在の国は次のものがある。
  • フランス領赤道アフリカ → コンゴ共和国、ガボン、中央アフリカ、チャド
  • フランス領西アフリカ → モーリタニア、セネガル、ギニア、コートジボアール、ベニン、マリ、ブルキナファソ、ニジェール

ドイツのアフリカ進出

 国家統一の遅れたドイツは、植民地獲得競争でも遅れ、1880年代に、ビルマルクベルリン会議で列強のアフリカ分割を調停にあたるとともに、アフリカへの進出を始めた。1883年中部アフリカ西岸のアングラ・ペチュナを占領し、次いでトーゴランドカメルーンに進出した。また、1886年イギリス・フランスとともにザンジバルなど東アフリカ分割に参加し、ドイツ領東アフリカ(現タンザニアなど)の広大な領土を得た。またベルリン会議では南西アフリカ(後のナミビア)を植民地として獲得した。
 このようにビスマルクはイギリス・フランスとの協調的な駆け引きでの領土獲得を進めたが、1890年、彼を辞職させた後のヴィルヘルム2世は、イギリス・フランスとの武力衝突を辞さない強硬路線で植民地分割に乗り出した。彼はイギリスに対抗して3B政策を掲げるとともに、アフリカ方面では1905年に自らモロッコのタンジールに上陸、つづいて1911年にはアガディールに軍艦を派遣するという二次にわたるモロッコ事件を引き起こした。なお、ドイツの植民地支配に対してアフリカ原住民の抵抗は、1905~07年にかけて、東アフリカ植民地でマジマジ反乱に見られるように激しかった。
 第1次世界大戦で敗北した結果、ヴェルサイユ条約でドイツの海外領土はすべて放棄することとなり、ドイツ領アフリカ植民地は次のように他の列強の手に移ることとなった。

ベルギーのアフリカ進出

 19世紀後半のベルギー国王レオポルド2世は、1878年以来、植民地経営に乗り出し、コンゴ地方に進出した。列強は利害がそれを警戒し、ドイツ帝国のビスマルクが召集して1884~85年、ベルリン会議が開催され、レオポルド2世の私的な所有地としてコンゴ自由国の設立が認められた。コンゴ自由国は、現地の黒人に対する過酷な収奪が行われたため、国際的な非難が起こった。そこでベルギーは1908年、コンゴを国家管理に移譲させ、ベルギー領コンゴとして植民地管理を行うこととした。第二次世界大戦後の民族主義の台頭の中でコンゴにも独立運動が起こると、ベルギーはフランスのアルジェリアにおける武力統治の失敗を見て、武力による抑圧をあきらめ、1960年に独立を認めコンゴ共和国が成立した。しかしルムンバを中心とした独立政府に対して鉱産資源の支配を維持しようとする大資本の後押しを受けたベルギー、アメリカの軍事介入が始まり、5年にわたるコンゴ動乱に突入することになった。 → 現在のコンゴ民主共和国

イタリアのアフリカ進出

 イタリアはシチリア島の対岸のチュニジアをフランスに奪われたことに危機感を抱き、1882年、ドイツ・オーストリアとの間に三国同盟を締結した。またイタリアはアフリカ東北部のエリトリアに進出し、1882年に領有を宣言、ベルリン会議でエチオピアから分離させて領有することを認められた。さらにエリトリアからエチオピアに進出を図り、1889年5月にはメネリク2世とウッチャリ条約を締結した。エチオピアがそれを破棄するとイタリア軍は軍事侵攻し、1896年アドワの戦いとなったが、フランスなどに支援されたエチオピア軍に敗れ、一旦後退する。20世紀に入ると英仏とともにソマリランドの分割に加わり、そのインド洋側を植民地とした。
 次いでチュニジアの東の当時オスマン領であったトリポリキレナイカに侵出、オスマン帝国に宣戦布告してトリポリを占領した(1911年~12年の第一次イタリア=トルコ戦争)。翌12年講和し、イタリアのトリポリ、キレナイカ2州領有が承認されると、イタリアは古代ローマの地名であるリビアと改めて植民地とした。これらは第一次世界大戦前の帝国主義列強によるアフリカ分割の一例であった。
 ファシスト党のムッソリーニ政権が成立するとアドワの戦いの報復を唱え、1935~36年に再びエチオピアに軍事進出(第2次イタリア=エチオピア戦争)し、エチオピア併合を強行した。

アフリカの年

 第二次世界大戦後の50年代からアフリカ諸国の独立運動が活発となり、特に1960年は17ヵ国が一斉に独立し、「アフリカの年」と言われている。その後もアフリカ諸国の独立は相次ぎ、最も遅かったポルトガルからのアンゴラモザンビークギニアビサウの独立が1974年に達成され、アフリカに対する植民地支配の時代は終わった。 → 新植民地主義