トルコ=イギリス通商条約
1838年、オスマン帝国とイギリスと間で締結された通商条約。不平等条約の先駆となった。
イギリスはパーマーストン外相主導のもとで、産業革命後の工業製品の市場をアジアに拡大する方針を具体化した。パーマーストンはムハンマド=アリー朝エジプトとオスマン帝国の間でエジプト=トルコ戦争が起こると、イギリスの市場たるべきオスマン帝国の保全にとって、ムハンマド=アリー朝エジプトの強大化を危険視した。そのためエジプトにとって打撃となるトルコ=イギリス通商条約の締結を進めた。
その内容は、オスマン帝国全土でのイギリス人の通商貿易権、領事裁判権を認め、輸出入税は一律賦課としてオスマン帝国の関税自主権を否定した片務的な不平等条約でああった。
トルコ=イギリス通商条約は、日米修好通商条約など以後に続くアジア諸国に対する不平等条約の先駆であり、巧妙なエジプト排斥のための条約であった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.66 p.144>
不平等条約の締結
1838年に締結されたトルコ=イギリス通商条約は、オスマン帝国が1535年にフランスに対して認め、さらにイギリスにも拡大されたたとされるカピチュレーションにおける外国人に与えられた居住や通商の特権を法的に確定したものであるが、その内容は片務的であり、イギリスにとって有利な不平等条約であった。その内容は、オスマン帝国全土でのイギリス人の通商貿易権、領事裁判権を認め、輸出入税は一律賦課としてオスマン帝国の関税自主権を否定した片務的な不平等条約でああった。
ねらいはエジプト
しかもこの条約は、イギリスとオスマン帝国の間で結ばれた国際条約であったので、国際法上はオスマン帝国の一州にすぎなかったエジプトもこの規制を受けなければならかった。特に、小麦などの輸出品は政府の専売品であったので、それに課税されることは大きな痛手となった。トルコ=イギリス通商条約は、日米修好通商条約など以後に続くアジア諸国に対する不平等条約の先駆であり、巧妙なエジプト排斥のための条約であった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.66 p.144>