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不平等条約

主に欧米諸国がアジア諸国に強要した、権利において不平等な通商条約。清朝がイギリスと結んだ南京条約とその付随条約、日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約などがその典型であるが、日本が朝鮮に強要した日朝修好条規も不平等な内容であった。

 アヘン戦争の結果、中国清朝が、1842年にイギリスと結んだ南京条約では関税自主権を放棄し。追加条約の五港通商章程領事裁判権(治外法権)を認め、虎門寨追加条約最恵国待遇を認めた。同様の条約として、アメリカとは望厦条約、フランスとは黄埔条約がそれぞれ締結された。  これら一連の条約は、清朝(中国)側にとって不利なもので、次のような点で不平等条約と言われる内奥であった。
(1)外国の領事裁判権(治外法権)を認めていること。
(2)関税自主権が無かったこと。
(3)片務的な最恵国待遇を認めていること。
 この三点に要約される不平等条約は、外交慣例のない中国の無知に乗じてイギリスおよびアメリカ、フランスなど欧米諸国が、武力を背景に認めさせたもので、対等であるべき主権国家間の取り決めとしては不正なものであった。
 アヘン戦争に敗れた清朝だけでなく、1858年、幕末の日本がアメリカと締結した日米修好通商条約など一連の条約も不平等条約であったが、1876年に明治日本が隣国朝鮮に押しつけた日朝修好条規(江華条約)も同じような不平等条約であった。
 不平等条約を締結していることは、国家としての主権が完全ではないということになるので、半植民地状態にあるということができる。そのため、不平等条約を認めざるを得なかった諸国では、条約改正が悲願とされ、その改正を実現して初めて近代的な新の独立国となると考えられた。清朝を倒した中国(中華民国)や江戸幕府に代わった明治の日本政府、朝鮮王朝などのアジア諸国では特に条約改正が近代国家の自立に不可欠な課題となった。
 なお、1871年、日本と真の間で締結された日清修好条規は不平等ではなく対等な内容であったが、日本は日清戦争後の1896年日清通商航海条約で治外法権(租界の設置)・関税特権など欧米と同じ不平等条約を認めさせた。

領事裁判権/治外法権

 領事裁判権とは、外国人が犯罪おこした場合、犯罪者の属する国の法律で裁かれることで、治外法権ともいい、それを認めることは国家主権が侵されることを意味する。中国では具体的には南京条約の追加規定である五港通商章程で規定された。また開港場の一定の地域を租借し、行政・警察権の及ばない租界として支配することが行われた。

関税自主権の喪失

 輸入品に課税する関税は本来、その国が自主的に決定するものであるが、清朝は関税協定権をイギリス以下の列強に認め、自主権を失った。それは貿易の主導権を外国に奪われることを意味し、中国の経済上の自立にとって大きな障害となった。同じく五港通商章程で取り決められた。

最恵国待遇

 最恵国待遇とは、条約締結国の一方が第三国に別の特権を認めた場合、自動的に相手国に同様な特権を認めること。南京条約の追加条約である虎門寨追加条約では、清がイギリスに対して一方的に認めるものだったので、片務的とされる。例えば、1928年までにアメリカ・イギリスなどは関税自主権回復に応じたが、日本との交渉が長引いたため、最恵国待遇をもつ諸外国も日本の協定関税条項が適用され、実質的に関税自主権が回復できたのは、日本との条約改正ができた1930年となった。

中国の条約改正

関税自主権の回復 中国においては、国民革命が進み、蔣介石上海クーデタで共産党を排除し、北伐が終了して国民政府の中国統一が成ったことから、1928年に諸外国に対して条約改正に応じるよう要請した。
 まず関税自主権の回復については、アメリカが改正に応じ、1928年7月25日に新たな関税協定を締結、中国の関税自主権を認めた。イギリス・フランスなど主要国もそれに続き、1929年末までに改正が実現した。しかし日本との日清通商航海条約の改訂交渉は北伐中の日中両軍の衝突事件である済南事件のため難航した。また最恵国待遇を認められていたため、各国の新関税協定は実施できなかった。日本はようやく1930年に新関税協定の締結に応じ、中国の不平等条約改正のうちの関税自主権の回復は実現した。
治外法権・租界の撤廃 関税自主権は回復できたが、治外法権条項はまだ残っていたため、上海その他の租界はその後も存続した。租界を拠点とした外国人の密輸などの不法行為は治外法権が認められていたため、中国官憲は取り締まることができなかった。また、日本は1931年の満州事変に続き、華北への侵略を開始、その支配地において治外法権をたてにアヘンの密売などを黙認し、中国民衆の反日感情の悪化を招いた。各都市の租界では「租界回収」を掲げ租界の撤廃を求める暴動が度々起こった。
 1937年、日中戦争が始まり、39年には第二次世界大戦へと拡大した。さらに41年に太平洋戦争へと突入するなか、国民政府蒋介石政権は残る治外法権と租界の撤廃に関する条約改正を欧米各国に申し入れた。アメリカ・イギリスは中国の要求に応じ、1942年10月に治外法権・租界の撤廃を宣言、蔣介石政府との間で交渉を進め、1943年1月11日に共同租界の返還、治外法権の撤廃などを認め不平等条約はすべて廃棄された。一方の日本は国民政府から離反した汪兆銘政府との間で、それぞれ協定を成立させた。
 このような経緯によって、中国の不平等条約の撤廃は完成した。

日本の条約改正

 なお、日本の条約改正も明治政府にとっての最大の外交課題であり、歴代内閣が取り組んだ。鹿鳴館時代といわれる、政治家・外交官が外国人の歓心を買う行為は民衆と国粋主義者の反発を受け、しばしば交渉は中断した。そのような中、諸外国から求められた国内法の整備、裁判制度の近代化なども進められたが、治外法権の撤廃は日清戦争の直前の1894年、関税自主権の回復は日露戦争後の1911年であった。いずれも戦争をめぐる国際関係を巧妙に利用した、前者の場合は陸奥宗光、後者の場合は小村寿太郎の外交交渉の成果とされている。
 その反面、日本は隣国中国に対しては、当初は対等な日清修好条規を締結しながら、日清戦争後の1896年に日清通商航海条約で日本に有利な不平等条約を締結し、朝鮮に対しては最初から不平等な日朝修好条規をテコに植民地化を進め、1910年に韓国併合に至っている。不平等条約という共通の桎梏に苦しめられた日本、中国、朝鮮というアジアの三国の歩みの違いを直視しよう。
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