カピチュレーション
1535年、オスマン帝国のスレイマン1世がフランソワ1世のフランスに与えたとされる通商特権。領事裁判権も含み、後にフランス以外にも拡大され、ヨーロッパ列強の侵出の口実とされた。
オスマン帝国のスレイマン1世が、フランスに対して認めた通商特権のこと。キャピチュレーションとも表記する。フランスのフランソワ1世は、ヨーロッパでの覇権を神聖ローマ帝国のカール5世と争い、1525年のパヴィアの戦いでは手痛い敗北を喫していた。そこでフランソワ1世は、オスマン帝国と手を結ぶことを計画し、スレイマン1世もカール5世の背後のフランソワ1世と結ぶことを有利と考え、1535年、両者の連携が成立した。フランスはオスマン帝国に協力する見返りとして、オスマン帝国内の諸都市(エジプトを含む)での通商上の特権(カピチュレーション)を認められた。その中には、領事裁判権という形で治外法権を認めていた。
19世紀のヨーロッパ列強がアジア諸国に強要した不平等条約とは違い、あくまでオスマン帝国側の伝統的な「非イスラム教徒保護」の恩恵として認めたものであるが、後にはフランス以外の諸国も同様の特権を要求するようになり18世紀以降になると列強の経済的進出の口実として利用されるようになり、オスマン帝国の弱体化、主権喪失の状態へと進むこととなった。
カピチュレーションの新バージョン その内容は、従来の「恩恵的特権」を継承しているが、①フランスとオスマン帝国が対等の立場であること(関税などは本来ならオスマン帝国が主体的に決定できるべきであるべきである)、②有効期間がさだめられなかったこと(従来は現スルタンの在任中)、③規定の履行をオスマン帝国側の義務としたこと、④フランスの保護民にも特権の対象が拡大されたこと(ギリシア正教徒やアルメニア人がフランスの保護民と称して特権を得るようになり、オスマン帝国の支配下から離れるようになった)、という点でオスマン帝国にとって不利なものであった。<林佳世子『オスマン帝国 500年の平和』興亡の世界史 講談社 2006初刊 2016 講談社学術文庫 p.305-306>
19世紀のヨーロッパ列強がアジア諸国に強要した不平等条約とは違い、あくまでオスマン帝国側の伝統的な「非イスラム教徒保護」の恩恵として認めたものであるが、後にはフランス以外の諸国も同様の特権を要求するようになり18世紀以降になると列強の経済的進出の口実として利用されるようになり、オスマン帝国の弱体化、主権喪失の状態へと進むこととなった。
カピチュレーションを認めた年代
なお最近の研究では、スレイマン1世の時にフランスに対してカピチュレーションを認めたことには疑問があり、後のセリム2世の時、1569年にフランスとの間に在留商人の特権(治外法権、領事裁判権、租税免除、財産・住居・通行の自由など)を認める条約を締結したのがそれに当たるという説が有力である。カピチュレーションの拡大
その後、オスマン帝国は1580年イギリス、1612年オランダとも同様の条約を結んだ。カピチュレーションを得たイギリスのエリザベス1世は翌1581年にオスマン帝国との貿易独占権をレヴァント会社に与え、同社は毛織物の輸出で繁栄し、またイギリスの代表機関としての役割も果たした。カピチュレーションの変質
16世紀にフランスに与えられたカピチュレーションは、恩恵的特権がその本質であり、オスマン帝国のスルタンから恩恵として外国商人に与えられる自由な交易の権利であり、関税を支払うことを条件に特許状として下賜されるものであった。しかし、18世紀になるとフランスは、国内の手工業の発達にともない、原料の綿花の輸入と、工業製品の輸出先としてオスマン帝国との交易の拡大を求めるようになり、そのために従来のカピチュレーションの見直しを迫るようになった。その結果、1740年に「新バージョンのカピチュレーション」が認められた。カピチュレーションの新バージョン その内容は、従来の「恩恵的特権」を継承しているが、①フランスとオスマン帝国が対等の立場であること(関税などは本来ならオスマン帝国が主体的に決定できるべきであるべきである)、②有効期間がさだめられなかったこと(従来は現スルタンの在任中)、③規定の履行をオスマン帝国側の義務としたこと、④フランスの保護民にも特権の対象が拡大されたこと(ギリシア正教徒やアルメニア人がフランスの保護民と称して特権を得るようになり、オスマン帝国の支配下から離れるようになった)、という点でオスマン帝国にとって不利なものであった。<林佳世子『オスマン帝国 500年の平和』興亡の世界史 講談社 2006初刊 2016 講談社学術文庫 p.305-306>
不平等条約
はじめはオスマン帝国からの恩恵として与えられていたカピチュレーションであったが、次第にオスマン帝国にとって不利益をもたらし、その足かせとなっっていった。近代にはいると、単に貿易特権だけでなく、帝国領内のヨーロッパ人居住者に領事裁判権を認める治外法権、関税の特恵措置を認めた通商条約などの不平等条項を広くカピチュレーションというようになった。イランのサファヴィー朝もカピチュレーションを認めている。トルコ=イギリス通商条約
近代的な条約としては、オスマン帝国がエジプトのムハンマド=アリー朝の台頭で苦しみ、第1次エジプト=トルコ戦争で 1838年のトルコ=イギリス通商条約が最初で、イギリスに有利なでしかも片務的な不平等条約として締結された。イランのカージャール朝もロシアとの間の不平等条約の最初である1828年のトルコマンチャーイ条約に続き、イギリスとは1840年にイギリス=イラン通商条約を締結している。これらが、幕末の日本が欧米諸国と結んだ不平等条約の前例であった。(引用)キャピチュレーションは、古く1535年にフランス商人に与えられた貿易特権であったが、近代に入ると帝国領土内のヨーロッパ人居住者に領事裁判権を認める優遇措置、関税の特恵措置を与えた通商条約などの不平等条項を広く指すようになった。17世紀にはイランのサファヴィー朝もキャピチュレーションを認め、やがてアジア全域で白人たちが例外なく享受する特権となった。 オスマン帝国にとっての皮肉は、かつてはみずからの優越性の象徴として、弱者たるヨーロッパのカーフィル(不信者)に与えた特権が、めぐりめぐって近代に入ると不平等条約の代名詞となったことだ。1838年の通商条約になると、政治と経済両面での弱者のオスマン帝国が強者のイギリスを保護する片務的な不平等条約に転化した。これほど馬鹿げた制度の変質も世界史では珍しい。しかし、似たような内容は、幕末の日米修好通商条約にも見られた。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.146>
カピチュレーションの廃止
オスマン帝国の危機がせまるなか、その近代化を目指す改革の目標にその廃止が掲げられるようになり、また西欧諸国で自由貿易主義が高まったこともあって次第に意味をなさなくなっていった。イギリスのオスマン帝国との貿易を独占していたレヴァント会社も1825年に廃止された。しかし、カピチュレーションが廃棄されるのは、実質的には第一次世界大戦の勃発した1914年であり、その後、ムスタファ=ケマルのトルコ革命でオスマン帝国が滅亡し、新たなトルコ共和国が1923年に英仏、ギリシアなどと締結したローザンヌ条約によって正式に廃止された。