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ムハンマド=アリー朝/エジプト王国(20世紀)

近代エジプトの王朝。1805年、エジプト総督ムハンマド=アリーがオスマン帝国から自立して創始。19世紀末にはイギリスの保護国となった。1922年にエジプト王国となり、1952年のエジプト革命で倒された。

 ムハンマド=アリー朝とは、その創始者の名を付けた近代エジプトの王朝で1805年に始まり1922年まで続いた。1805年、エジプト総督のムハンマド=アリーが、オスマン帝国の衰退に乗じて実質的に自立し、創始した。形式的にオスマン帝国の宗主権下にあったが、ムハンマド=アリーの巧みな交渉で実質的には独立国として19世紀のヨーロッパ列強と渡り合った。宗主国オスマン帝国に対しても戦いを挑み、1841年、シリア進出を図ってエジプト=トルコ戦争を戦い、領土拡張はならなかったが、総督世襲が認められ、王朝としての体裁を整えた。
 ムハンマド=アリー朝のもとでエジプトの近代化が進んだが、列強の干渉も強まり、1881年からは実質的に、1914年からは正式にイギリスの保護国となってその支配を受けるようになった。第一次世界大戦後の1922年にエジプト王国となったが、第二次世界大戦後の1952年のエジプト革命で倒された。 → エジプト王国(20世紀)

ムハンマド=アリー

 ムハンマド=アリーオスマン帝国軍傭兵隊長としてナポレオンのエジプト遠征軍との戦いから頭角を現し、1805年エジプト総督に任命された。1811年にはマムルーク勢力を一掃してエジプトの旧勢力を排除、さらにエジプトの富国強兵をはかる近代化政策を推進した。  その間、周辺のアラビア半島ではワッハーブ王国(第一次)を滅ぼし、エジプトの南のスーダンを併合し、勢力を周辺に伸ばしていった。ギリシア独立戦争ではオスマン帝国軍の中枢として戦い、無視できぬ実力を示した。

エジプト=トルコ戦争

 1831年にオスマン帝国にたいしてシリアの行政権を認めるよう要求、入れられなかったことから第1次エジプト=トルコ戦争となった。この闘いは、エジプトのオスマン帝国からの分離独立をめざす戦いとなり、ヨーロッパ列強の介入が強まり、1839年、第2次エジプト=トルコ戦争ではイギリスと直接戦って敗れた。この西欧列強の干渉を受けてシリアは放棄したが、1841年にエジプト・スーダンの総督の地位の世襲化を国際的に認められ、エジプトの「ムハンマド=アリー朝」が正式に成立した。 → オスマン帝国領の縮小

ムハンマド=アリー朝のエジプト

 1805年にムハンマド=アリーエジプト総督(ワーリー)に任命されてた時から始まるとされるが、その地位の世襲が認められたのはエジプト=トルコ戦争後の1841年である。
 この時期のエジプトは、形式的にはオスマン帝国宗主国とし、スルタンから総督として任命される「自治州」のような存在であったが、国際社会では独立した主権国家と同様に扱われた。

スエズ運河の建設

 1854年に始まるスエズ運河の建設事業はエジプトにとっては自立をアピールする格好の機会となり、フランス人レセップスはエジプトと結んでその事業を推進したが、イギリスはオスマン帝国と結んでそれを妨害しようとした。難事業であった運河建設が1869年に開通したことは、エジプトが実質的独立国として世界に承認される意義を持っていた。

総督から副王へ

 スエズ運河建設中の1867年、第5代の総督イスマーイールから副王(ヘティーブ)と称し、自立を図り、実質的には君主としての統治権を持つようになった。副王の地位も形式的にはスルタンの臣下であることには変わりはなかったので、完全な主権国家とは言えず、半独立国という状態であった。そこでエジプトはオスマン帝国の影響力を排除することを目指し、その過程でフランスとイギリスという列強との関係が強まっていった。

財政の破綻

 しかし、ムハンマド=アリー朝のエジプトは、ムハンマド=アリーの対外戦争と近代化政策によってすでに財政難に陥っていた。それでもムハンマド=アリーは外債に依存することをさけていたが、その死後の君主たちは、安易に外債に依存した。その結果、負債が膨大になり、ついに1875年スエズ運河株をイギリスに売却した。それでも財政状況は好転せず、翌76年にはついに破綻して、イギリス・フランスの二国による国際管理下に置かれることとなった。

ウラービー革命と保護国化

 特にイギリスの介入が強まる中、1881年ウラービー革命(ウラービーの反乱)が英仏二国による財政管理に反発、独立と憲法の制定などを要求し、一時エジプトの実権を握ったが、翌年、イギリス軍はアレクサンドリアを砲撃するなど軍事介入によって鎮圧し、それを機に1882年9月、実質的にエジプトを保護国化した。
 このように、エジプトは帝国主義による植民地分割によってイギリス領に組み組まれたのであり、1904年には英仏協商が締結され、フランスはイギリスがエジプトを勢力圏とすることを認めた。第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がドイツ・オーストリア側に参戦すると、イギリスは正式にエジプトを保護国とすることをオスマン帝国に通告した。

エジプト王国(20世紀前半)

ムハンマド=アリー朝エジプトは、19世紀末にはイギリスの保護国となり、1922年からエジプト王国に昇格。第二次世界大戦後の1952年のエジプト革命で倒された。 → エジプト(20世紀前半)

ワフド党の結成

 イギリスの保護国となったエジプトでも、第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激され、民族主義が高まってきた。エジプト人の手による議会の開設や政府の樹立を要求するワフド党が組織され、1919年に彼らは代表をパリ講和会議に送ってエジプトの独立を世界に訴えた(ワフドとは「代表」の意味である)。国王によって代表団派遣が拒否されると、ワフド党は1919年3月に蜂起した。この1919年革命は指導者サアド=ザグルールが逮捕され、マルタ島に追放されて終わったが、エジプトにおける反英民族運動として重要な意義を喪あった。
 ワフド党の1919年革命運動は、同年起こった朝鮮の三・一独立運動、インドの非暴力・不服従運動(第1次)、中国の五・四運動と並んで民族自決を求めるアジアの広範な動きの一つであった。
 イギリスはその後、一定の妥協を図り、大戦後の1922年2月28日に、エジプトを保護国とすることをやめ、正式にムハンマド=アリー朝のものでの「エジプト王国」として独立を認めた。これはイギリスが一方的に宣言したもので、しかもこの時点では、イギリスはエジプトの防衛権、スエズ運河の支配権、スーダンへの駐兵権をそのまま維持していたので、完全な独立とは言いがたかった。

ワフド党政権

 1924年にはワフド党政権が成立し、イギリス政府との折衝を重ね、1936年エジプト=イギリス同盟条約でイギリスはエジプトの完全な主権を認めた。そかしそれでもなお、イギリス軍は運河地帯とスーダンへの駐屯は継続した。特にスエズ運河はインド支配にとって要になると考えられたからであった。

パレスチナ戦争での敗北

 第二次世界大戦末期の1945年3月には、エジプト王国の国王ファルークは他のアラブ諸国と共にアラブ諸国連盟を結成した。それは、第一次世界大戦中にイギリスがユダヤ人に対するバルフォア宣言によって、パレスチナへのユダヤ国家建設を認めたため、ユダヤ人の移住が始まり、アラブ人との衝突が始まっていたからであった。ユダヤ人が国際連合の決議を受けてイスラエルを建国すると、アラブ諸国連盟はそれを阻止しようとして、1948年5月15日パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が始まった。エジプト王国もその盟主として戦ったが、王政とワフド党政権の下で十分な訓練もなかったエジプト軍は、イスラエル軍に大敗した。

エジプト革命で消滅

 これは、王政に対する不満を爆発させることとなり、ナセルなどの青年将校が組織した自由将校団1952年7月に決起してエジプト革命を起こし、国王ファルークを追放した。ついで翌1953年6月18日、その継嗣の王位継承は拒否され、ムハンマド=アリー朝エジプト王国は終わり、エジプト共和国が成立した。