天朝田畝制度
てんちょうでんぽせいど。太平天国の平等思想によって提唱された土地均分制。どのように実施されたかどうかは不明な点が多い。
天朝田畝制度 刊本表紙
1853年、太平天国軍が南京を占領し天京と改称した後に制定した、土地と社会に関する制度。古代の周時代の井田法や唐の均田制を理想とし、土地均分による平等社会の実現を目指した。「田あればともに耕し、銭あればともに用い、どこもかしこも均等でないところはなく、誰一人として飢寒に苦しむことのないようにする」ことを目指した。すべての田を上々から下々に至る9等級に分かち、男女の別なく年齢に応じた広さの田を耕作し、土地の私有は認めない。25戸を一集団として国庫と礼拝堂をおき、一家に必要なものを除いて生産物は国庫に納め、飢饉にそなえたり、身よりのないものや身体の不自由なものに与える。実際どこまで行われたか不明の点も多いが、太平天国の革命的性格を表している。
鄧小平は文化大革命後に復活して、改革開放路線に転換、人民公社を廃止し、資本主義化を推し進めることとなった。その変化を受けて、天朝田畝制度の評価についても、歴史家の間で激しい議論が起こり、その過度な平均主義に対する批判が強まった。また、天朝田畝制度には商品生産という発想がないという指摘もされており、最近では否定的な見解が強い。<小島晋治『同上書』 p.180>
資料
天朝田畝制度の理念とされる部分は次の通りである。(引用)「およそ天下の田畑は天下の人がみんなで耕すべきものであって、ここの耕地が不足するならかしこに移って耕し、かしこの耕地が不足するならここに移って耕すようにすべきだ。天下の田は豊凶互いに融通すべきであって、ここが凶作なら、かしこの豊作をもって救い、かしこが凶作なら、ここの豊作をもって救う。こうして天下の人々をしてみなともに天父上主皇上帝の大いなる福を享受できるようにする。田があればみんなで耕し、食物があればみんなで食い、衣服があればみんなで着用し、銭があればみんなで使い、いずこの人もみな均等にし、一人のこらず暖衣飽食できるようにする」
「天下の人々はすべて天父上主皇上帝の一大家族である。天下の人々がなにものをも私有せず、あらゆるものを上主(上帝)のものとすれば、主(天王=洪秀全)がこれらを運用して、天下の一大家族のあらゆるところの人々を平均にし、すべての人々を暖衣飽食させる。これがつまり天父上主皇上帝がとくに太平真主に命じられた救世の趣旨である」<小島晋治『洪秀全と太平天国』初版1987 岩波現代文庫版 2001刊 p.173-174>
現代中国での評価
中国共産党は、太平天国運動を農民革命の先駆者と位置づけ、天朝田畝制度は地主による封建的な土地所有制度を否定した革命綱領であると高く評価してきた。1958年から60年にかけての毛沢東が指導した大躍進運動の中で設立された人民公社は、集団農耕と平等な分配という理念に天朝田畝制度の基本精神を継承したといえる。しかし、大躍進運動は過度な重工業優先や自然災害もあって失敗し、人民公社も成果が上がらず、食糧生産力が低下して4千数百万人が餓死するという結果となった。それが底流となっておこった毛沢東批判に対する反撃が文化大革命であった。鄧小平は文化大革命後に復活して、改革開放路線に転換、人民公社を廃止し、資本主義化を推し進めることとなった。その変化を受けて、天朝田畝制度の評価についても、歴史家の間で激しい議論が起こり、その過度な平均主義に対する批判が強まった。また、天朝田畝制度には商品生産という発想がないという指摘もされており、最近では否定的な見解が強い。<小島晋治『同上書』 p.180>
天朝田畝制度は実施されなかった
天朝田畝制度については、太平天国の説明で必ず出てくる事項であるが、現在ではそれは統治理念として出されただけで、実施されることはなかったとされている。用語集でも、ただし実施されなかった、と断定されている。一般向け概説書でも次のように書かれている。(引用)太平天国の統治理念を示す書物が『天朝田畝制度』である。そこには、すべての人民に田畑を割り当てるという社会像が描かれていて、儒教で言う理想的な治世形態の影響を強く受けている。しかし、太平天国が支配した地域において、このような土地分配が実施されることはなかった。実態としては、それまでの土地所有をそのまま認めたうえで、清朝と同様に土地税を徴収して財源としていたことになる。<吉澤誠一郎『清朝と近代世界19世紀』シリーズ中国近現代史① 2010 岩波新書 p.69>